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“身に着ける椅子”が立ち仕事の現場を変える!

千葉大学フロンティア医工学センター 准教授 川平 洋

現代人の悩める職業病“腰痛”の原因の一つに「立ち仕事による疲労の蓄積」が挙げられる。特に工場での作業や病院での手術のように同一姿勢を長時間にわたってキープするには多大なエネルギーを要し、腰への負担も大きい。運動エネルギーをいかに抑え、止まっている状況を楽に維持するかに焦点を当てて誕生したというウェアラブルチェア「archelis」(アルケリス)。発案者であり監修として開発に携わった、医師にして千葉大学フロンティア医工学センターに属する川平 洋准教授に詳細を聞いた。

独特の装着感が心地良い! その名に違わぬ機能性

研究室の扉から顔をのぞかせた川平 洋准教授の第一声は「実物がありますので、まずは体験してみてください。その後で説明した方が分かりやすいですから」

消化器系外科の最前線で現場に立ってきた経験を生かし、多くの医療用器具を開発してきた川平准教授

通された部屋にあったのは2体のアルケリスだった。

「奥にあるのが2016年に作った試作品の6号機で、こちらが最終段階のものです。基本的な設計はほとんど変わっていませんが、足首の可動域やバンドなど細かな仕様が改良されています」

左右独立したアルミ製の骨格に、脚の形に沿う樹脂製カバー、留めるためのバンドだけで構成されたシンプルなフォルム。有機的な曲線を描く白いカバーがいかにも近未来の道具といった風情だ。川平准教授に手伝ってもらいながら、装着に掛かった時間は数十秒。慣れると数秒で着脱できるようになるという。

アルケリスの装着は器具の外側から片方ずつ脚を通し、足の甲とすね、太ももをストレッチ素材のバンドで留めるだけ

まずは膝の可動域をフリーにして歩行に挑戦。普段歩いているときとは全く同じではないが、スキーブーツを履いて歩行する感覚に近い。ここから膝を少し曲げた状態でダイヤルをロックするだけで“座る”ためのモードになる。太ももの裏側と、すねの前面に体重を預ける格好だ。

膝の部分にあるダイヤル

膝を10~15度くらいで曲げた状態が静的位置(座っている状態/写真左)。可動部をロックした状態でも、立ち位置を変える程度は動くことはできる

「膝と腰でS字のラインを描く、この姿勢が最も体幹が安定するんです。二足歩行ロボットも常に膝が少し曲がってますよね。体幹を安定させ、繊細な動作が求められる外科医の疲労を軽減し、長時間に及ぶ手術に集中してもらうことが、アルケリス開発の第一義です」と語る川平准教授。

腰は確かに浮いているのに、感覚的には完全に座っている。はたからはつらそうな姿勢に見えるかもしれないが、体のどこにも負担が掛かっていない。直立している状態と比べても、明らかに楽なのだ。ちなみにアルケリスという製品名は「歩ける椅子」をイメージして命名されたもの。まさに名前通りの装着感だ。

さらに足首の可動部分がスイングする構造になっているのも特徴。少しだけ体を左右に揺らせることで、バランスが取りやすく、体の向きも変えやすくなる。浮遊しているような独特の心地良い感覚があり、これはクセになりそうだ。

足首の部分はロックされず、前後方向だけでなく左右にも動く。この機構がバランスを取りやすくしている

外科医としての経験から生まれたアイデア

千葉大学フロンティア医工学センターの准教授であり、千葉大学医学部附属病院で食道・胃腸外科を担当する医師でもある川平博士がアルケリスを発案したのは2014年末。何気ない会話から生まれたアイデアだったという。

「横浜で金属加工業を営んでいる株式会社ニットーの藤澤秀行社長、工学博士の中村亮一氏と私の3人で、あるトレーニング用の手術器具を作れないか、という相談をしていたときのことでした。その日も私は午前中に手術があったため腰が痛かったので、楽に中腰姿勢を取ることのできる器具があったらいいのにと雑談していたのです。

私がノートにささっとイメージを書いて見せたところ、藤澤社長に大変興味を持っていただきました。その3カ月後には現在のものに近いプロトタイプが出来上がっていました」

アルケリスのアイデアを思いついた時に書き記したノート。S字姿勢で体を安定させる考え方が既に示されている

川平准教授が得意とするのは腹腔(ふくくう)鏡手術。従来の開腹手術に比べて傷が小さいため、患者の負担が少なく予後もいいとして、近年急速に普及した術式だ。ただ、高度で専門的な技術が求められ、手術時間も長くなる傾向にあることから、担当する外科医や助手にかかる肉体的負担は決して小さくない。

「腹腔鏡手術はモニターを見ながら精密な動作が要求される上、手に器具を持ったまま、何時間も同じ姿勢でいなければなりません。医師の疲労は相当なものです。手術が長時間に及んでも、最後までやりきるだけ集中力を維持したい。そんな思いが、発想の源でした」

原理的には金属の支えに寄りかかっているだけで、スプリングなどの反力すら利用しないアルケリスには一切の動力が必要ない。言わばエネルギー効率の極致だ。これは動きをアシストするのではなく静的姿勢の維持を目的としているためで、電気や空気圧でより力を発揮させるパワーアシストスーツとは役割が全く異なっている。

「電源コードが必要だったり、バッテリーを背負うようなパワーアシスト装置だと手術室での動きを阻害しますし、他の高周波の機械などにも影響を及ぼしかねません。そして故障のリスクもあります。また、制御を入れると多少なりとも操作が必要で、そんな面倒な装置ならいらないとなってしまう。疲れている人が使うためのものなので、さらに心配の種を増やすような道具にはしたくなかった。だから動力エネルギーを使わずに済むのなら、それに越したことはないんです」

動力を使わず、力学的作用のみで静的姿勢を維持するシンプルな構造のアルケリス。写真は最終段階の試作品で、製品版は素材が一部変更される予定

体重を支える強度と軽量化を両立できた背景には、長年、金属加工を専門としてきたニットーの技術力がある。これまで作られた数多くの試作品は、職人による叩き出しで加工されたという。最初のプロトタイプである程度の形ができていたにもかかわらず、今回の市販化まで約3年の歳月が掛かったのは、試作品を作っては試して、問題点を洗い出す作業が必要だったため。例えば、装着時に外れてしまう可能性のあるネジをなくし、かしめる(接合部を固く留める)構造にしたり、バンドを長年の使用にも耐えうる切れにくい材質に変更するなどだ。手術室というシビアな環境での使用を想定するには欠かせない工程だった。

また、そうしたメーカーとの開発工程とは別に、研究室の学生たちや工学博士と共にモーションキャプチャーや筋電位センサーを使った先進的な解析も行っている。

「医療現場での使用を前提に開発した理由は主に2つあります。一つは現場を知っていること。もう一つは、論文などを通して効果を科学的に実証できることでした。ただ実際には、医療現場に限らずもっと幅広い分野で活用できると思っています」

目的と構造がシンプルなだけに、使用領域には制限がない。長時間の立ち仕事、同じ姿勢での作業が必要な現場なら、どこでも恩恵があるだろう。実際、メーカーへは医療機器の仲介業者などに加え、製造業や農業、水産加工業、警備、飲食店などさまざまな分野から問い合わせが来ているという。現段階で価格は発表されていないが、将来的に多くの分野で活用されるようになれば、コストダウンが期待できるだろう。

膝関節部のロックを解除することで歩行できるのが最大の特徴。立ち位置を変えながら長時間作業するのに適した構造だ

メスを握る人間をサポートする道具作り

いよいよ市販目前となったアルケリスだが、川平准教授の挑戦は既に次の目標に向かっている。

「アルケリスは下半身でしたが、現在は上半身の動きをサポートする器具を開発中です。研究段階なので詳細は明かせませんが、肘を固定することで肉体の負担を軽減し、より精密な作業を可能にする目的のものです。

アルケリスは単純な仕組みなので既に完成された設計になっていますが、進化する余地があるとすれば軽量化やコストダウンなどでしょう。将来的には装着者が間違ったアクションを起こさないよう、正しくナビゲートしてくれるような機能なども付加してみたいですね。そうした目的なら電気を使うのも必然性があります」

近年、医療業界でもAIやロボティクス分野が大いに注目されているが、近い将来についていえば“医師の領域が全て機械に置き換わることはない”と川平准教授は考えている。

「今のところ、現場で主体となるのはあくまで人間です。それは医療が技術や知識が必要なだけでなく、責任感や決断を伴う行為だからです。そのために人間の能力をサポートする器具を作っているんです。新しい道具ができて快適になり、皆が笑顔になってくれればうれしいじゃないですか」

そう笑みをたたえながら前を見つめた。

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