エネルギーE人伝

CASIOの礎を築いた希代の発明家・樫尾俊雄【前編】

世界初の小型純電気式計算機「14-A」を発明

腕時計や電卓、電子楽器を主力商品とする電機メーカー「カシオ計算機」(CASIO)。その社名が示すとおり、樫尾(かしお)家の4兄弟、忠雄、俊雄、和雄、幸雄が創業した会社だ。中でも製品開発を担当していた次男・俊雄は、生涯で313もの特許を取得した偉大な発明家。日本のエレクトロニクス産業の発展に貢献した偉人の歩みと功績をひもといてみよう。

エジソンに憧れて発明家を志す

「“必要は発明の母”ではなく“発明は必要の母”なんです──」
 
これは樫尾俊雄の発明哲学として今なお語り継がれている言葉だ。

「ユーザーが求めているものを作るのでは遅過ぎる。ユーザーがまだ気付いてもいないような必要性を呼び起こす発明をしなければならない」ということ。

実際に、常に時代の先を行く独創的な商品を生み出してきた発明家の矜持(きょうじ)が垣間見える、重みのある言葉である。

樫尾俊雄は1925(大正14)年、東京生まれ。生涯で313の特許(共同名義を含む)を取得。電卓・時計・電子楽器等数多くの発明品を世に送り出し、2012年に87歳でその生涯を閉じた

四男の幸雄によると、俊雄は天才肌で、いつも一人で黙々と何かを考えているタイプだったという。子供のころから「エジソンのような発明家になる」が口癖で、弟に算数を教えるときは独自に編み出した計算法を用いていたのだとか。
 
そして、持ち前の発想力を生かし、俊雄が生んだ第1号のヒット商品は、時代を先取るスーパー電気製品…ではなく、クロームメッキの指輪にタバコを挿すパイプを付けた「指輪パイプ」だった。

「指輪パイプ」の図面

発売は1946(昭和21)年。たばこを根元近くまで吸える商品として大ヒット。たばこの火が指につかないよう、絶妙な角度に工夫が凝らされている

当時の俊雄は21歳。逓信省東京逓信局(現在のNTT)に技術者として勤めていたが、優秀な旋盤作業員であった兄・忠雄が営んでいた樫尾製作所の経営を助けるべく職を移すことに。指輪パイプは俊雄が最初に作ったヒット製品だった。当時は下請け仕事が多かった樫尾製作所は、指輪パイプが売れたことで計算機の開発に打ち込む資金の余裕ができたという。

そして三男の和雄、四男・幸雄も会社に加わり、いよいよ計算機の開発が本格的にスタートすることとなる。

煩雑な計算から人々を解放したい!

計算機の開発に乗り出すきっかけとなったのは、1949(昭和24)年に銀座・松坂屋で開かれた事務機器・OA機器などの展示会「第一回ビジネスシヨウ」だった。そこに並べられた輸入物の電動式計算機を見て、俊雄は衝撃を受けたという。

当時の国内の計算機といえば、そろばんと、手回しで動く機械式が主流だったのだ。例えば「100×12」の場合、100をセットした後、レバーを1度回し(10の段)、シフトして今度は2度回す(1の段)、という仕組み・手順。現在の電卓と比べると想像を絶するほどの手数の多さだ。

輸入物も実際の計算は歯車を使っていたが、シフトチェンジなどの手回しだった部分をモーターが担当していた。価格は30~40万円で、自動車と同じぐらいの高級品だったこともあり、日本国内の注目度は決して高くなかった。

しかし、ビジネスシヨウを見た俊雄は「算盤(そろばん)は神経、されど計算機は技術なり。日本にもこれからは計算機が必要になる!」という自身の考えに確信を持つ。機器として発展する可能性も高く、自分で開発すれば大きなビジネスになると考えたのだ。

こうして樫尾製作所が計算機の開発に着手したのは1950(昭和25)年ごろ。そして、基幹部品の試行錯誤、構造の見直し、資金調達の紆余曲折などを経て、1957(昭和32)年に俊雄の発明人生を代表する製品が生まれる。

世界初の小型純電気式計算機「14-A」だ。

「14-A」は現在も樫尾俊雄発明記念館(東京都世田谷区)に動作する状態で保存・展示されている。幅1080mm、高さ780mm、奥行445mm。重さは約140kg

誤解のないように説明しておくと、小型と言いつつも「14-A」は小机サイズの計算機である。事務机の上に単独の電卓が置いてあるのではなく、デスク部分の内部にびっしりと演算回路が敷き詰められている。
 
何よりも革新的なポイントは、歯車を回転させる機械式計算機が主流だった時代に、俊雄のアイデアでリレー(継電器)を用いることで、歯車を一切持たない純電気式計算機を完成させたこと。リレーは電話交換機などに使われることが多く、逓信省に勤めていた俊雄は仕組みを熟知していたのだ。

「14-A」の背面(内部)に連なっているリレー。電磁石を使った装置で、コイルに電流を流し、磁力で鉄片を動かして接点を開閉する

要するに、各リレーのOFF/ONをそれぞれ2進法の0、1に対応させて、演算を行う論理回路を作っているのだが、“天才”俊雄は独自に考案した配線で、小机サイズに収納できるわずか341個のリレーに14桁まで四則演算を行わせることに成功した。

定数も5桁の数字を3組まで記憶できるなど、最先端の機能を実現。1万個以上のリレーを使用した当時の大型コンピューターと同等の計算能力を持ち、一般企業でも手軽に導入できるサイズであり、歯車式のようにガチャガチャと大きな音が出ないことも高い評価を得た。

現在、四則演算機能を持つソフトウェアはパソコン上のプログラム言語でいとも簡単に作成できる。「14-A」はおよそ60年前の限られた技術環境で、コストと性能を両立させた夢のような計算機を実現させたのだ。各企業の研究開発や経理の現場で大幅な作業効率化がなされたことで、高度経済成長期真っただ中の日本を支えたといっても過言ではないだろう。

さらには、これも俊雄の発案で、今日の電卓の常識となっている「テンキー」を備えていることも先進的だった。当時の計算機は、全ての桁ごとに数字ボタンが縦に並ぶ「フルキー」が主流だったからだ。

完成したリレー式計算機と樫尾4兄弟。左から次男・俊雄、後に営業を取り仕切った三男・和雄、金属加工の技術に長けた長男・忠雄、主に商品の設計図面を作成していた四男・幸雄

「14-A」の価格は48万5000円。輸入物の“電動式”計算機よりも高かったが、既述のように“電気式”の圧倒的な性能が評価され、発売から間もなく大手銀行を中心に受注が入った。また、弱点だった接触不良を解消するべく材料を見直したところ、大幅なコストダウンに成功。工場を新設しても間に合わないほど注文が相次ぐことに。

そして1957(昭和32)年、樫尾家4兄弟は父とともに計算機の開発・製造を行う会社として「カシオ計算機株式会社」を設立した。資本金は50万円(当時の大卒初任給は5000円台)で、当時の従業員は22名だった。製品につけるロゴは「CASIO」になったが、これについて俊雄は興味深い発言を残している。

「『kashio』では計算機のスピード感が出ない。兄弟で相談して『casio』にした。星座のカシオペア(cassiopeia)にちなんだ名前だった」

世界市場への進出を意識して、誰もが知っている星座を連想させるスペルにしたのだ。

草創期の工場のようす

激化する“電卓戦争”を勝ち抜く

その後も俊雄はリレー式計算機の改良に情熱を注ぎ、最初の機種発売から2年後の1959(昭和34)年に、平方根(ルート)の計算ができる新型「14-B」を発売。そのまた2年後には、タイプライターと一体化し伝票が印刷できる機種も創り出した。

当時、計算機の理論を全て理解していたのは開発した俊雄だけで、量産によって負担が集中。組み立てた計算機の検査からアフターサービスのためのセールスマン向けの講習まで俊雄が受け持っていたこともあり、過労でダウンしてしまったことも。技術部門のスタッフが、俊雄が書いた手書きの図面を必死に理解することでカバーしたという。

社内の人間でも理解するのが難しいほど独創的な原理で作られていたため、カシオのリレー式計算機は市場を独占。追従する企業は出てこなかった。勢いに乗るカシオは現在の東京都東大和市(当時の北多摩郡大和町)に新工場を造り、後にそこに本社も移転。社員数は200名ほどに増えていった。

しかし、1964(昭和39)年にトランジスタを使ったライバル会社・シャープの電卓が登場したことで、リレー式計算機は一気に“時代遅れ”になってしまう。トランジスタなどの素子を組み合わせたIC(集積回路)が普及し、電子機器は小型化が急速に進んでいく。

小型電卓に乗り遅れたカシオだったが、リレー式計算機からの撤退を決めると、俊雄は再び新商品の開発に没頭。小さくて高機能、さらに価格を抑えた新商品を次々と生み出し、大手メーカーとしのぎを削る“電卓戦争”を巻き起こした。

当時、電卓の心臓部である半導体を米国のメーカーに発注する日本企業が多い中、カシオは「メイド・イン・ジャパン」にこだわり、日立製作所と日本電気(NEC)に開発・製造を依頼した。このことから、今でもカシオは日本の半導体産業の創生に貢献したと言われている。

俊雄を中心に「軽薄短小」をキーワードにした製品開発を進めていたカシオは、1978(昭和53)年に世界初の名刺サイズ電卓「LC-78」を発売する。ディスプレーに液晶を採用することで、薄型化と省電力を実現。オイルショック後、省資源、省エネルギーの考え方が広まる社会のニーズにマッチした商品をいち早く完成させたのだ。

名刺サイズの「LC-78」は薄さ3.9ミリを実現。爆発的なブームを巻き起こした

カシオの電卓の生産台数は、1975(昭和50)年には累計1000万台を突破。独創的な商品を出し続けたことで不況知らずの成長を続けることに。
 
やがて俊雄は電卓の開発を部下たちに任せるようになり、その後カシオの主力商品に加わる腕時計や電子楽器の開発に本腰を入れていく。

<2017年6月28日(水)配信の後編に続く>

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