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「電気の超特急を走らせろ」新幹線の父・島秀雄【前編】

電力インフラの整備が夢の超特急実現の原動力だった

今では東京-新大阪間をわずか2時間半で結ぶ東海道新幹線。エネルギーに生涯を捧げた偉人を紹介する連載の第1回は、「電気で走る夢の超特急」の開通に命をかけた新幹線の父・島秀雄に焦点を当てる。電気で走る超特急を実現させ、日本の大動脈となるインフラを作る――。緻密かつ地道なハードワークで高速鉄道を開通させた、一人の技師の生涯について、『新幹線をつくった男 島秀雄物語』の著者・高橋団吉さんに話をうかがった。

世界が驚く新機軸!

東海道新幹線ができていなければ、世界の交通インフラはどのようになっていただろう。おそらく、慢性的な自動車渋滞を引き起こす都市部の通勤電車を除いて、鉄道は衰退の一途をたどっていたはずだ。

というのも、第2次世界大戦後、欧米の鉄道先進諸国ではすでに幹線のレールは撤去され始めていた。自動車と航空機の時代を目の前にして、鉄道は誰が見ても「斜陽産業」以外の何物でもなかったのである。

東海道新幹線は、「世界鉄道史」がいよいよ終幕を迎えようかというときに、全く新しい一幕が慌てて付け加えられたかのような、斬新で画期的な新機軸だった。

「広軌超高速」「中長距離」「頻発」「大量輸送」

これらが交通インフラとしての東海道新幹線を表すキーワードといえる。

時速200km超の猛スピードで、東京―新大阪間の約515kmを緩やかな曲線の広軌(線路のレール幅を表す軌間が1435ミリ※現在でいうところの標準軌)で結び、一編成に千数百人の乗客を乗せて(開業当初は12両編成、のち16両)、しかも山手線並みの頻発ダイヤを組むことができる。

1964(昭和39)年秋の開業早々から、世界の鉄道人を驚嘆させた「ニュー・トウカイドー・ライン」は、その鉄道システムとしての桁外れの斬新性ゆえに、やがて「シンカンセン」と通称されるようになる。

島秀雄。国鉄技師長に就き、新幹線計画に携わった

親子2代の夢

その「夢の超特急」の功労者は2名いる。

最大の功労者は、1955(昭和30)年春に71歳で国鉄総裁に就任した十河(そごう)信二である。

2期8年を「国鉄再建」にささげた頑固オヤジの活躍については、紙幅の関係上ここでは触れられないが、その十河が、総裁就任半年後に「夢の超特急計画」を託すために技師長として呼び寄せたのが、島秀雄だ。

島、54歳。

十河が「新幹線を走らせた男」なら、島はまさしく「新幹線を作った男」といえるだろう。

島秀雄は、国鉄蒸気機関車設計陣のエースだった。

「C57」「D51」「C62」などの戦前・戦後に大活躍する国産蒸気機関車は、軒並み島秀雄が設計のイニシアティブを取っている。島の父である島安次郎も、「車両の神さま」と称された明治・大正期を代表する鉄道技術者。だが、日本に広軌鉄道を走らせるという父の悲願は、たびたびチャンスはあったものの、ついに実現しなかった。

新幹線の計画が立ち上がったとき、島はすでに国鉄を去って、国内有数の台車メーカー・住友金属取締役の席に収まっていた。

「外から応援しますから……」と固辞する島を、「親父さんの弔い合戦をしよう」と言って十河総裁が口説き落としたとも伝えられる。

安次郎をよく知る十河から見れば、東海道広軌超特急の建設こそ、島秀雄にとっても父子2代の「見果てぬ夢」に終わらせたくはない、因縁の大プロジェクトのはずだった。

島秀雄の父・安次郎(1870~1946)。戦時中の弾丸列車計画では幹線調査会特別委員長として精力的に活動した

丸ごと一式、鉄道を作る!

「慎重居士」。

国鉄技師長時代の島秀雄に、部下たちがひそかにつけたニックネームである。

「石橋をたたいても、渡らない」。それが島技師長の仕事の流儀だった。「絶対の安全」が求められる日本国有鉄道の技師長は、そうでなければ務まらない。

では、なぜ、「石橋をたたいても渡らない慎重居士」が、「シンカンセン」という世界を驚嘆させる新機軸を生み出すことができたのだろう?

その理由は、新たに鉄道を“丸ごと一セット”作ったことによる。

国鉄の在来線は、全線が狭軌(線路のレール幅を表す軌間が1067ミリ)だったため、広軌の超特急を走らせようとすれば、線路はもちろん、トンネル、橋梁、駅などの一切を新しく作る他に方法がない。「シンカンセン」は、日本が狭軌鉄道の国だったからこそ誕生したのだといえる。

島秀雄は、この絶好のチャンスを最大限に生かして「理想の鉄道」を作り上げたのである。

“ムカデ式”というアイデア

「シンカンセン」の鉄道システムとしての斬新性は、もう一つある。「電車列車方式」である。

日本の新幹線は、先頭に機関車を配置していない。

先頭車両には、独特の空力フォルムを持つ運転台は付いている。だが、編成全体を動かす駆動モーターは、山手線や京浜東北線の電車のように、各車両に分散されている。モーター付きの車両に乗っているかは、乗客にはほとんど判別がつかないだろう。

しかし当時、世界の鉄道界の常識では、都市部の近距離通勤電車を除いて、もっぱら「機関車列車方式」と決まっていた。大型の重機関車が先頭に立って、その後ろに続く客車群を引っ張る。この機関車列車方式には「乗り心地がいい」という不動のメリットがあると思われていた。

当時、日本でも都市部を走る電車は「ゲタ電」と呼ばれていた。ガッタンゴットン……。各車両に駆動モーターがつけられていて、まるで下駄で石畳の上を走るように騒々しく、振動もひどかったからである。

世界の鉄道人にとって、そんなゲタ電で500kmもの距離を時速200キロで走る……などということは、まさしく“問題外のソト”だったのであろう。しかし島は、電車列車方式の方がはるかに理にかなっているということを、早くから見抜いていた。

この「電車列車方式」のことを、島は自宅の食卓で子供たちに「ムカデ式」と説明している。

ムカデは「百足」と書き、それぞれの体節に一対の足を持ちそれらを見事に動かしながら進む。「鉄道車両もぜひマネをしたい」。

ムカデ式のメリットはたくさんある。

加減速性能に優れている。車両も軽くできるので、路盤も高架線も橋梁も安く作れる。先頭の機関車を付け替えなくてすむから、折り返し運転もしやすい。過密ダイヤも組める。ホームさえ長く作れれば、一編成の長さにも制約がない。故障にも強く、足が一本ケガをしても、みんなで助け合えば走り続けられる。効率的な電力回生もできる。

つまり、とても「理」にかなっている。

「ゲタ電」の「ノイズと振動」さえ解決されれば、将来東海道を走る高速鉄道は「ムカデ式」になる――。

そのことを、“合理に徹する”車両技師としてキャリアを積んできた島秀雄は、見抜いていたのである。

「東海道新幹線には未経験の新技術は使っていません」

島秀雄は何度もそう発言している。全て、国鉄在来線や私鉄線で経験済みの技術を集積したにすぎません、と。高速&高効率モーター、電力回生、空気バネ、高速走行に耐える台車……。将棋の序盤戦さながらに、島技師長はコツコツと一手ずつ駒を進めていった。

新幹線の試験車両の前で(島秀雄、写真右)

もちろん、ムカデ式超特急を走らせるには、いわゆる「ゲタ電問題克服」のほかにも、諸条件が整うのを待たねばならなかった。

その最たるものが、電力インフラであろう。

超特急のための“交流電化”

新幹線計画の是非が論じられていた昭和30年代の初め、在来東海道線にはまだ非電化区間が残っていて、特急「つばめ」を蒸気機関車がけん引していた。

東海道新幹線は、東京-新大阪間515kmを、交流60ヘルツを使って走っている。計画がスタートした当時、「交流電化」は国鉄在来線で実用化が始まったばかり。そこで、島技師長率いる国鉄技術陣は電力会社と連携しながら、北陸線などで交流電化の経験を積み上げていった。

こうして、島秀雄の独創と言うべき「東海道ムカデ式超特急」は着実に実現への道筋が付けられてゆくのだが、実は「ムカデ式」の構想はこの計画が立ち上がる30年前から、彼が温め続けたものだった。



<2017年2月9日配信の後編はこちら

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