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「電気の超特急を走らせろ」新幹線の父・島秀雄【後編】

夢の超特急を生んだのは若き時代の世界旅行で磨いた「先見性」

「技術者は、人類の知見に貢献すべきです。個人や会社、国の名誉を求めてはいけない」。 “電車列車方式による高速幹線鉄道”のために腕を磨き続けた技師のかがみ、島秀雄。十河(そごう)信二国鉄総裁(写真中央)と力強い信頼関係で結ばれ、電力インフラの整備など諸条件を整えることで、いよいよ「電気で走る夢の超特急」は日本に誕生する――。

シンカンセンを生んだ世界旅行

前編からやや時間を巻き戻そう。
※前編の記事はこちら

島秀雄は、東海道新幹線開業のざっと30年近くも前から、「いつの日か、世界のどこかの国の主要幹線にムカデ式の超特急が走る日が来るに違いない」と考えていた。

その原点は、1936(昭和11)年の春から1年半かけて巡った「世界視察旅行」に遡ることができる。

ドイツを主たる滞在国として、島は鉄道省同期入省組たちと“鉄道の最新事情”を視察して回った。

基本的には公費による海外視察旅行であったが、島秀雄はこの機会を最大限に生かし、父・安次郎の後援のもとに、私費を投じて、これ以上は望めないほどの“大世界旅行”を敢行。下山定則(のちに初代国鉄総裁、謎の怪死を遂げる)を誘って南アフリカへと足を延ばし、さらに南米諸国を経て、北米に長期滞在をしている。

島秀雄という鉄道技術者の並外れた「先見性」「世界性」を語るには、この大旅行は避けて通れない(詳しくは『島秀雄の世界旅行 1936─1937』・髙橋団吉著を参照)。

当時、第2次世界大戦前夜である。

ドイツではすでにナチスが台頭し、この2年後には第2次世界大戦が始まり、独ソ開戦の火ぶたが切って落とされるという時期。欧米先進諸国の鉄道は最後の黄金期を迎えていた。

ドイツの最新鋭特急「フリーゲンデル・ハンブルガー」に、時速200kmの高速蒸気機関車「03」「05」。フランスのミシュラン製ディーゼル気動車に、ブガッティ製ガソリン気動車。南アフリカの特急「ユニオン・リミテッド」をけん引する狭軌(線路幅を表す軌間が1067ミリ)最高速機関車「E16」に、アメリカの大型電気機関車「GG1」、そして流線形ディーゼル特急「シティ・オブ・ロサンゼルス」……。

島は最先端の鉄道技術をつぶさに視察しながら、将来のあるべき高速幹線鉄道について思いを巡らせ、次第に確たる見通しを固めていくのである。

世界旅行中のワンカット。1936(昭和11)年、フランスのルアーブル駅にて。ブガッティ・ガソリンカー(内燃動車)。自動車メーカーのブガッティは、1931(昭和6)年からガソリンカーの開発に取り掛かり、1933(昭和8)年にスポーツカー用エンジンを搭載した流線形車両を完成させる。短編成だが、「ムカデ式」の一種

鉄道のほかにも、島秀雄は欧米で「シンカンセン」につながるものを視察している。

アメリカでフォードの「デラックス・ツーリング・セダン」を買って、アメリカ東海岸で乗り回し、ニューヨークからニューオーリンズを経由し、ロサンゼルス、サンフランシスコに至る大陸横断ドライブにチャレンジしたのだ。

アメリカで爆発的に進行していた“自動車社会”というものを、身をもって体験することで、将来の鉄道の果たすべき役割についての考えを深めていく。

この世界旅行の途上、オランダ・ロッテルダム港近くのライン河を下る船上で、岸辺をガタゴトと走る近郊電車を眺めながら、「シンカンセン」につながる最初の着想、すなわちムカデ式超特急のアイデアを得た……と、島は晩年に回想している。

フォードの「デラックス・ツーリング・セダン」で走行中に横転した島秀雄。相当飛ばしていたとみられ、写真のキャプションに「ツヒニ!」とある

技術者は“人類”に貢献すべき

「技術者は、人類の知見に貢献すべきです。個人や会社、国の名誉を求めてはいけない」

島秀雄が事あるたびに口にし続けた、島流の技術哲学である。

島はこう考えていた。

技術者の仕事は「物事の合理性」を見つけることで、人間の欲得とは本来、無関係。しかも近代技術は、個別技術の総合的な集積であり、技術者はいま自分の目の前の課題に取り組めばよい。それが、やがてどこかで役立てられる。ムカデ式超特急も、いずれ諸条件が整った国で実現されるだろう。技術者は、そのときに貢献できるよう、技術を切磋琢磨(せっさたくま)しておくべきだ――。

島秀雄は、戦時中も大空襲下の避難先(東京・中野、宝仙学園)で若い技術者たちと高速走行台車の研究を続けた。

敗戦間もないころから官民の技術者を集めて「高速台車振動研究会」というものを組織し、国鉄在来線の車両を少しずつ「ムカデ式」にシフトしながら、ムカデ式超特急への準備を一手ずつ進めていくのである。

EF63形電気機関車の試験運転にて(1962年、碓氷峠)。顔を出しているのが技師長だった島秀雄

“機関車総裁”と“ムカデ技師長”

機関車とムカデ。

この考え方の違いは、十河総裁と島技師長の仕事の進め方においても際立った対照を見せる。

十河信二は先頭に立ってグイグイと後続の車両群を引っ張る重機関車そのものであり、島秀雄は万事、電車方式で事を進めようとした。

「大バカヤロー!」と雷をさく裂させながら十河総裁は先頭を突っ走る。「ありがとうございました」と礼儀正しく頭を下げながら、島技師長は人々の考えが妥当な結論にたどり着くのを辛抱強く待つ。

片や意志的。片や合理的。

車両も人間も、十河信二にとっては「目的に向かって驀進(ばくしん)すべきもの」であり、島秀雄によれば、「異音なく滑ること」を最上とした。

「東海道新幹線の計画&建設」は、総裁と技師長の人間ドラマとして眺めてみても興味深い。

この後、十河総裁は政治家と官僚を敵に回して、「夢の超特急計画」をグイグイとけん引した。

その間、島秀雄は、国鉄技師長の任期である1期4年を、国鉄在来線のムカデ化に全力を傾ける。通勤電車を改良し、近距離、中距離路線に新式のムカデ式電車に投入しつつ、1期任期満了目前の1958(昭和33)年11月に在来東海道線に「ビジネス特急こだま」をデビューさせる。与えられた期限に「狭軌最終形」というべきムカデ式特急をピタリと合わせるのである。

そして1959(昭和34)年12月、老総裁は孤軍奮闘の末、「夢の超特急計画」を政府決定まで持ち込んだ。文字通り四面楚歌の中、頑固オヤジが意志を貫き通すドラマの末に、十河総裁と島技師長の“前例のない”2期続投が認められ、「夢の超特急」計画がかろうじて継続されるのである。

その後は、路線確定、用地買収、短期決戦の突貫工事、車両開発、資金不足……悪戦苦闘の4年間だった。2期目以降、合理的ムカデ主義者の島技師長は、次第に総裁・十河信二の「意志」の力に尊敬の念を深めていく。

“機関車総裁”だけでは、ムカデ式超特急は実現していない。他方、“ムカデ技師長”だけでも、計画自体が早々に頓挫するほかなかったはずである。

「新幹線は島君が作ったんだよ。あんなスマートな列車になるなんて、夢にも思わなかったよ」

十河は最晩年までそう口にしている。

電気で走る超特急を実現させ、日本の大動脈となるインフラを作る――。

「機関車とムカデ」のペアは、大仕事を成し遂げるための条件なのかもしれない。

新幹線用車両を感無量といった面持ちで見つめる十河総裁

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