エネルギーE人伝

日本で初めて電球を作った偉人・藤岡市助【前編】

電気事業の発展に尽力した“日本のエジソン”

LED電球が台頭するまで、照明の主役として長きにわたり人々の生活を明るく照らしてきた白熱電球。エジソンによって事業化された世紀の発明品の“国産化”を成功させたのが藤岡市助だ。彼がともした白熱電球の輝きは、まさに文明開化のシンボル。2020年の東京五輪に向けてさまざまな分野で技術革新が進む今、かつて欧米に負けない電気産業を興すことに尽力した偉人の歩みを振り返り、その情熱から勇気をもらいたい。

日本初の電灯公衆公開を主導!

暗い夜でも電灯が光り、安心して街を歩くことができる。東京が世界屈指の「不夜城」へと歩み始めるきっかけとなる出来事が、およそ1世紀前に起きた。

1882(明治15)年11月1日午後7時30分。銀座2丁目の大倉組事務所前で、日本で初めてアーク灯(弧光灯)と呼ばれる電灯の公衆公開が行われたのだ。

電柱の高さは5丈(約15m)、ローソク2000本分(2000燭光<しょっこう>)の明るさだったという。「夜道=暗闇」が常識だった当時の市民にとって、その驚きは現代人が初めてプロジェクションマッピングを目の当たりにしたときよりも大きかったはず。

実際に、まるで魔法を眺めるかのように、大勢の市民が見物に訪れたことを当時の錦絵が記録している。

「東京銀座通電気灯建設之図」

電気の史料館所蔵

このイベントの仕掛け人は、設立前の東京電燈株式会社。一般市民に電灯照明への理解を深め、そのメリットを宣伝するためのデモンストレーションだった。

その3カ月ほど後に、東京電燈は設立許可を得る。これにより、日本の発電・送電事業が、アメリカやヨーロッパから約2年しか遅れずにスタートすることになったのだ。

そして、この事業の必要性にいち早く気付き、実現に向けて尽力したのが藤岡市助だ。当時、弱冠25歳。工部大学校(東京大学工学部の前身)を卒業したばかりの工学者が、計画を立案し、財政界や政治家を説いて回ったのである。

激動の時代に生まれた秀才

藤岡市助は、幕末の1857(安政4)年3月14日に岩国藩士の長男として誕生。ペリー来航の直後であり、幕末から明治ヘ変わる激動の時代だった。

幼年時代の市助

岩国学校教育資料館所蔵

幼少時より藩校で学んでいた市助は、維新後に開設された岩国英国語学所で頭角を現すと、18歳のときに旧岩国藩主の吉川経健から東京遊学を命ぜられ、工部大学校の前身となる工学寮へと進む。

さらっと紹介したが、岩国英国語学所は全ての学問を英書にて学ぶ場所で、最先端の天才育成塾のようなもの。そこで市助は首席を占めており、英国人教師に代わって教壇に立つこともあったとか。幼いころから、正真正銘の秀才だったのである。

話を戻すと、工業の発展に寄与して国に尽くそうと考えていた市助は、工部大学校の電信科で電気工学の研究に励み、イギリスの物理学者であるウィリアム・エドワード・エアトン教授から電灯の性質調査を命じられた。そこでの研究が、エネルギーの源ともいえる日本初の白熱電球を生み出す礎となっていく。

当時はまだ、電気といえば電気通信を意味しており、電気で光をともす実験はほとんど認知されていなかった。世界ではイギリスで天然燃料を用いたガス灯に代わり、電気を使ったアーク灯の照明が発明されていたが、日本では短時間の点灯実験記録しかなかったのだ。

そんな中、1878(明治11)年3月25日、工部省中央電信局の開業祝賀会で、会場となった工部大学校のホールを照らすために日本で初めてアーク灯の点灯実験が行われた。エアトン教授の指揮のもと、市助も助手として参加。不安定な点灯ながらも、新技術の可能性を目撃した来場者は驚嘆したという。

エジソンの白熱電球に触発される

その後、1881(明治14)年に工部大学校を首席で卒業した市助は、翌月には工部大学校教授補に就任し、電信学と物理学を担任することに。

翌年には、わずか25歳で工部大学校助教授に就任。

ちなみに当時、電信学は翻訳書を頼りに学ぶ分野であったが、市助は23歳のときに「電信初歩」と題する書籍を執筆。これは日本人が手掛けた初の専門書だ。

市助がいかにこの分野の第一人者であったかが分かるエピソードである。

25歳の藤岡市助

岩国学校教育資料館所蔵

母校で学生を指導する一方で、市助は電気技術・エネルギーの普及にも努めていく。石炭ガスの燃焼を利用したガス灯よりもはるかに電気の光は日本の産業発展に欠かかせないものだと確信していたからだ。

契機となったのは、電信機関係の製作所・田中製造所を経営していた2代目・田中久重との出会いだ。

市助が工部大学校の教授補を命じられた1881年、市助の元を田中久重が訪ねてきた。アーク灯の製作の可能性を聞きにきたのである。

「今すぐにはできないが、早ければ5年、遅くとも10年で実用化できる」と、アーク灯への熱心な思いを語る田中に市助は大いに共感し、手始めに新橋の田中製造所に電灯をともした。

そして1882年5月、市助は新橋の田中製造所に改良ランプと海軍省から借用したサーチライト用ダイナモ(発電機)を使って電灯をともし、石丸安世(いしまるやすよ/元電信頭)も交えた晩餐をする。

この田中久重が経営していた田中製作所こそ、芝浦製作所の前進だった。芝浦製作所は、百余年を経て現在の東芝に成長する。

東京・京橋区南金六町9番地(現在の銀座8丁目9番15号)に設立された田中製作所

東芝未来科学館所蔵

先見性のある実業家に刺激された市助は、自らも電気の事業化を目指して動きだす。1883(明治16)年に設立された東京電燈(現・東京電力)は、市助の提唱に端を発しており、冒頭で触れた通り、宣伝を兼ねて銀座通りに2000燭光のアーク灯を設置した。

しかし、肝心の電球は輸入品に頼る以外になく、これは利便性でもコストの面でも大きな問題であった。

そのころ、世界では真空環境で金属フィラメントに電流を通し、白熱状態にさせて光を得る白熱電球に注目が集まっていた。1878年にイギリスの化学者J.W.スワンが発明に成功し、翌年には、アメリカの発明家トーマス・エジソンが40時間の長時間点灯を達成し、さらに性能の良い白熱電球を開発する。

このニュースを知った市助は、アーク灯を使った照明の啓蒙活動をしながらも、白熱電球に注目せざるを得なかった。その意思は、アメリカを訪れて実際にエジソンの発明品を目の当たりにすることでますます強くなる。

白熱電球の国産化を目指す

1884(明治17)年、市助は政府使節としてアメリカへ派遣される機会を得る。

フィラデルフィア万国電気博覧会で電気を用いた最先端の技術を視察した後、ニュージャージーにあったエジソンのランプ工場を訪れて白熱電灯を見学。その精巧な作りに感銘を受けたという。

また、一説ではエジソンの研究室にも足を運んで本人と面談を果たし、こんなアドバイスを贈られたといわれている。

「いかに電力が豊富でも、器具を輸入に頼るようならその国は滅びる。電気器具の製造を手掛け、自分の国を自給自足で賄えるようにしなさい」

自給自足、すなわち製品の国産化の重要性は、工部大学校の恩師エアトン教授からも説かれていたことだった。いずれにせよ、市助は渡米を機に白熱電球の国産化に日本の未来を見い出し、この研究に全力を尽くすようになる。

また、帰国後に市助の依頼を受ける形で、エジソンからのプレゼントが工部大学校に届く。発明したばかりの高声電話機1対と、白熱電灯3ダースが贈られてきた。それが研究の重要な資料となったことはいうまでもない。

帰国後、市助は、国や経済界へ電球の実用化・国産化を積極的に働きかけていく。2年後の1886(明治19)年、市助の提言により「東京電燈」が開業。いよいよ日本でも電気エネルギー時代が到来した。

同年、市助はついに大学の教職を辞し、東京電燈の技師長へ転身。英国から電球製造機械を輸入して、白熱電球の試作を開始した。

1890(明治23)年4月には、同じ岩国出身の三吉正一と共同で「白熱舎」を創設し、本格的な電球製造に着手する。

創業当時の白熱舎

東芝未来科学館所蔵

1890年に白熱舎が開発した初期の白熱電球

東芝未来科学館所蔵

白熱電球の製造は、当時世界の最先端技術。

その製造は、困難を極めたものだった。英国から電球製造機械を輸入したものの、組み立ての説明書もなく、製造に用いる材料や薬品ですら国内では手に入らないという状況だったのだ。

まさに手探りの中で、国産の白熱電球の開発が進められていく。


<2017年10月18日(水)配信の後編に続く>

日本初のエレベーターや電車の考案設計にも着手!

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