エネルギーE人伝

耐震構造理論の生みの親・内藤多仲【後編】

立て続けに“タワー六兄弟”を設計!

大地震に負けない建造物を設計するため、耐震壁によるエネルギーを均衡化させた耐震構造理論を確立し、戦後間もない日本で数々の大規模なオフィスビルや商業施設を手掛けた内藤多仲。1950年代(昭和25年~)にはテレビ時代の幕開けと共に電波塔の構造設計にもまい進する。後編では、“塔博士”や“日本のエッフェル”と呼ばれた彼の代表作が生まれた背景を振り返ってみよう。

戦前から耐震設計のタワーを建てていた!

内藤多仲が初めて鉄塔を手掛けたのは1925(大正14)年。

同年に開始したラジオ放送のための東京放送局(現・NHK)愛宕山放送局鉄塔の構造設計を任された。塔の高さは45.4m。デザインはV字形のウェブ材を連結させたもので、当時は“タケノコがスクスク伸びていくようだ”と表現されていた。

以後、内藤多仲は「鉄塔造りは、私に課せられた宿縁」と、意欲的に日本の鉄塔造りに参画していく。情報伝達管理の重大な使命を持つ電波塔が倒壊してしまうと、災害時に情報が錯綜(さくそう)して人々が混乱に陥る。ゆえに強力な耐震性が要求されることに、建築構造学者として使命感を燃やしていたのだ。

耐震壁理論を確立したことにより、建築をはじめさまざまな分野への貢献が認められ、1962(昭和37)年に文化功労者に選ばれる。その2年後には勲二等旭日重光章(現・旭日重光章)を受賞した

画像提供/早稲田大学

彼が手掛けた塔を年代順に並べてみると、まず1932(昭和7)年にNHK大阪千里放送所鉄塔の構造設計を担当。高さ100mの塔だったが、1934(昭和9)年に京阪神地方を襲った室戸台風、最大瞬間風速60m/秒にもビクともせず、無傷だったという。

やがて終戦を迎え、1950年代になるとテレビ時代が幕を開け、鉄塔のスケールはさらに大きくなっていく。

1954(昭和29)年…名古屋テレビ塔<180m>
1956(昭和31)年…大阪通天閣<2代目・100m>
1957(昭和32)年…別府タワー<100m> ※建設当初・現在は90m
1957(昭和32)年…さっぽろテレビ塔<147m>
1958(昭和33)年…東京タワー<333m>

一目瞭然だが、驚くべきはその生産ペース。名古屋テレビ塔から東京タワーまで、ほぼ1年に1塔の割合で巨大な鉄塔の建設に携わっていたことになる。そして、東京タワーから6年後の1964(昭和39)年には博多ポートタワー<100m>を手掛けた。

以上、6つの塔は内藤多仲の代表作として「タワー六兄弟」と呼ばれている。

名古屋テレビ塔はNHKと民放のテレビアンテナを1カ所にまとめた日本初の「集約電波塔」だ。展望台のほか、送信機室や休憩室、土産店などを収めた3層の建屋を設けた

画像提供/名古屋テレビ塔株式会社

2代目となる通天閣は、大阪の新世界で戦前に消失した初代を商店主など地元の出資により再建したもの。放射状の街路が交わる約1200平方mという限られた敷地に立つ。内藤多仲が設計したタワーの中で唯一、放送・通信設備のない観光目的だけの展望塔だ

画像提供/TSUTENKAKUKANKO

そんな鉄塔建設の権威をもってしても一筋縄ではいかなかったのが、東京タワーの構造設計だった。

エッフェル塔を超えて世界一高い塔を作る!

東京タワーの発起人は、産経新聞の創始者である前田久吉。当時は国会議員だった。彼はやがて来るテレビ時代の隆盛を予見し、巨大電波塔建設のための具体案を練る。

そして財界の支援を得て、1957(昭和32)年に東京都港区芝公園の増上寺に付随する墓地だった一角を取得。しかし、地震と台風の多い日本で巨大鉄塔を建てるのは技術的にハードルが高い。「これをやってのける人物は日本でただ一人しかいない!」と、内藤多仲に白羽の矢が立ったのである。

世界一高い総合電波塔を目指して、目標は1889(明治22)年に誕生したフランスのエッフェル塔(324m ※当時は312m)を超えることだった。それまで日本で最も背が高かった名古屋テレビ塔(180m)のほぼ2倍……尋常じゃない要求である。しかし、内藤多仲はこれを快諾する。

彼にはこんな思いがあった。

「都市に造る高い塔は、それたけで観光資源になるものだ。ただ電波を出すだけの塔では面白くない。展望台を造って多くの人を楽しませると同時に、塔自体も都市景観、美の形成に寄与するものでなければならない」

そして1957年に設計がスタート。前田久吉をはじめとする立案側から出された設計条件は、アンテナも含めた塔の高さが380mだった。また、高所には展望台を設置し、塔の下には5階建ての科学館を設けること。

それを実現するため、内藤多仲は煙突のような形をした鉄筋コンクリート構造を検討した。しかし、それでは重過ぎてエネルギーを吸収できず地震の影響を大きく受けてしまうと判断し、鉄骨構造を採用。この時点で現在の東京タワーの形が決定されたのだ。

もはや現代人にとっては“立っているのが当たり前”の東京タワーだが、あの独特の形状はとことん安全性を突き詰めた結果である。まず、真上から見ると正方形であるのは、それが最も安定した形だから。そして、正面から見ると末広がりになっているのは、風や地震によって塔にかかるエネルギーに最も無理なく抵抗できるからだ。

高さ約80mにも及ぶアンテナは特に風の影響を受けやすく、結果的にアンテナを含めた塔の高さは現在の333m(鉄塔は253m)に変更された。力学的には鉄塔の構造設計に未知の部分はなかったものの、揺れの問題は未知の部分があったため、安全性を優先して高さを下げたのである。

それに伴い設計を最初からやり直すことになり、描かれた設計図は最終的に1万枚になったともいわれている。設計が終わるまでに3カ月を要した。

東京タワー工事現場の風景。敷地は芝増上寺の境内の一部を買い取ったもので、明治初期には紅葉館や三縁亭といった社交場があった

画像提供/TOKYO TOWER

内藤多仲が採用したX形の鉄骨ブレース(補強材)が並ぶ構造は台風・耐震のための基本的な形であり、経済的にも優れていた。また、美的感覚からすれば、末広がりの曲線ではなく直線形のデザインもあり得たが、内藤は直線の塔に構造的な合理性はないと考えていた。

結果的に完成後、エッフェル塔に似ているという批判もあったといわれているが、彼は力学的に無理がなく自然かつ安全な形を追求したところ「自然の成り行きでこうなった」と語っている。

「風速90m/秒の台風や関東大震災の2倍の地震がきてもビクともしません。絶対に心配ありません」と、安全性にも自信を持っていたという。設計が終わり工事が開始されてからは、日に日に高くなっていくタワーを見るのがただただ楽しかったという。

東京タワー工事現場で談笑する内藤多仲

画像提供/早稲田大学

1958年に東京タワーが完成したころ、内藤多仲は早稲田大学を退職して名誉教授になっていた。その後、80歳を超えるまでさまざまな建造物の構造設計を手掛け、机上の研究にとどまらず建設現場に精力的に足を運んだ。

コンピューターのなかった時代、彼の手元にはいつも恩師から贈られた小さな計算尺があった。それさえあれば、「新幹線で大阪に行く間に構造設計が1棟分できる」と晩年に語っている。明晰(めいせき)な頭脳も然ることながら、勤勉さとエネルギッシュな行動力が彼の偉業を支えてきたのだろう。

半世紀以上も前に耐震構造理論を考案し、体系化していった彼の存在なくして、東京タワーはもちろん、現在の都市を埋め尽くしている高層ビルも、そうやすやすと建つことはなかったかもしれない。

これからも日本は大規模な自然災害に直面するかもしれない。内藤多仲が残したエネルギーバランスに優れた建造物は、困難に立ち向かい、克服してきた歴史を示している。その遺志を受け継いでいくのが現代人の使命ではないだろうか。

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