2017.8.9
1000分の1秒を縮めるアシックスのスポーツギアが世界を変える
アシックス スポーツ工学研究所 次世代技術開発チーム 谷口憲彦/フットウエア機能研究部 石川達也
わずか数秒の差で優劣が決まる陸上競技種目。その一歩を詰めるために、アスリートたちは機能的なスポーツウエアで鍛え上げた肉体を包む。2016年のリオ五輪でメダルを獲得したスプリンターにスパイクとウエアを提供したメーカー、アシックス。その製品を開発した2人の研究者の挑戦に迫った。
エネルギーロスを見つめたスポーツギア
リオ五輪・男子200m走、決勝。そのゴールの瞬間、競り合った選手とわずか0.003秒の差で勝利し、銅メダルを獲得したクリストフ・ルメートルという選手がいた。彼の走りを支えたスパイクとウエアを手掛けたのが、アシックススポーツ工学研究所の研究者、谷口憲彦氏と石川達也氏だ。
「トラック競技の場合、より速く進むためには、いかに人間の発揮するエネルギーを地面に伝えて、ロスなく推進力を得るかに限ります」
そう語るのは、ルメートル選手が着用した「カーボンスプリントスパイク」の開発者、谷口憲彦氏だ。同研究所に18年勤めるベテラン研究者で、これまで野球のバットをはじめ、さまざまなスポーツ用品の開発を担ってきた。
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機械工学科出身だが、スポーツ業界で人をワクワクさせる道を志した谷口憲彦氏
同じくルメートル選手がリオ五輪で着用したウエア「HL-0(エイチエルゼロ)スプリントスーツ」を開発したのも同社。その担当者が石川達也氏だ。
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プロジェクトチーム名に、クリストフ・ルメートル選手の頭文字と100mの世界新記録樹立を目指すという意味を込めて「CL957」と付けたと語る石川達也氏
谷口「私たちは、運動力学や人間工学などの立場から、人の動きのデータ化を徹底して製品開発を行っています。その過程で、以前から着目していた“ヒステリシスロス”を2つの製品のテーマにしました」
ヒステリシスロスとは、物質を伸ばしてから戻して縮めた際に、物質に蓄積されたエネルギーの一部が熱に変換されて失われてしまうという現象だ。一般的なシューズやウエアを着用して走る際にも発生しており、このエネルギーロスを最小化することを目指して、2つの製品は開発されたのである。
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手前が短距離用スパイクのカーボンスプリントスパイク、奥が短距離用スーツのHL-0スプリントスーツ
谷口「シューズは一般的に、大きく分けてアッパー(甲被)とソールの2つのパーツからできています。カーボンスプリントスパイクのアッパーには、東レ株式会社さんと共同開発した新素材“HL-0メッシュ”を採用しました。ポリエステル繊維に弾力性の高い繊維を織り込み、軽量で肌当たりの良い織物ながら、高い保形性とバネのような弾力性を備えているのが特徴です。そのためフィット性に優れ、エネルギーロスにつながる着地時の足とシューズとのブレを抑えてくれます」
一方、HL-0スプリントスーツにも、東レ株式会社と手掛けた高剛性素材と高伸縮性素材を採用していると石川氏は言う。
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HL-0スプリントスーツの股関節部。速さへとつながらないものは一切排除しながら、機能とデザインの融合を追及している
石川「高剛性素材は、ゴムのように伸びと戻りが良く、ヒステリシスロスが当社従来生地の約半分という性質を持っています。また高伸縮性素材は、当社従来の素材と比べると約8割軽く、約8割の力で伸ばすことができるため、よりスムーズな動きを可能にします」
この高機能素材が、どのようにエネルギーロスを軽減しているのだろうか。
石川「例えば走るとき、地面を蹴った後ろの足は、地面から離れた後、進行方向とは逆向きに動いてしまう局面があります。100分の1秒を競う競技において、進行方向と逆に動くことはエネルギーロスの要因。そこで、スーツの股関節に高剛性素材を組み込み、その生地が伸び戻る力を活用して、この動きを抑制し推進力に変えることを考えました。
このとき、生地を伸ばしてエネルギーを蓄積する過程では、アスリートの動きにくさにつながらないように自らの力で動かしている“能動的な動き”ではなく、慣性などの力によって動かされている“受動的な動き”を活用する工夫をしています。同様に、高剛性素材を体幹や足関節部にも配置して、クラウチングスタート時の上体の起き上がりや、走行時の地面の蹴り上げなどもアシストしているんです」
新素材の採用が招いた厳しい道のり
一流のアスリートが選ぶアイテムには、こだわりがあることは想像に難くない。シューズであれば軽さやフィット感が重視されるが、谷口氏は履き心地も速さに直結する要素だと考えている。選手によってはわずかな縫製の段差にさえストレスを感じ、思わぬタイムロスにつながる場合もあるというのだ。
そこで、このスパイクは、通常いくつものパーツを縫製して作り上げるアッパーを一枚の生地で作り上げるよう設計。縫製部の段差をなくし、履き心地を改良している。しかし、ソールの設計では思わぬ苦戦を強いられた。
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カーボンスプリントスパイク。ルメートル選手の足に合わせて薄いソールを重ねている。重さはおよそ127g(サイズ29.5cm)を実現
谷口「軽くて強度があるカーボンをソールに採用し、極限まで軽量化を図ったものの、わずかにでも設計を間違えてしまうとすぐ割れてしまったんです。しかも、決して同じ厚みの一枚板ではなく、目指す性能を発現するようにつま先からかかとにかけて厚みをミリ単位で変化させ、さらにスパイクピンも一体化する必要がありますから、開発初期段階では何度も何度も失敗しました」
さらに、カーボンソールは初採用だったために、耐久性を検証する実験システムがなかった。そこで、ソールにセンサーをいくつも貼り、無線でデータを飛ばして測定するシステムを一から作り上げ、実験と改良を重ねた結果、ようやく形になった。
石川氏が開発したHL-0スプリントスーツも、実現までの道のりは険しかった。プロジェクトを始めること自体、困難があったという。
石川「シューズであれば、これまで弊社が培ってきた速さを追求する姿勢や考えが選手や社員の間で定着していますが、ウエアの場合は服で何が変わるのか、という根本的な認識がありました。それを打破するためには、製品の方向性を見いだし、効果の発現を定量的なデータで示すことが必要で、最終的なプロジェクトの承認が下りるまでに時間を費やしてしまいました」
さらにウエアならではの困難もあったと石川氏は続ける。
石川「選手自身に、これを着たら速く走れそう、という実感を持ってもらわないことには、選手にとって新しいものにトライする意味がないんですよ」
これまでのウエアは、快適性や通気性などが求められ、走りを邪魔しないものでしかなかった。だからこそ、選手からしてみれば、”速さ”への好感触が得られなければ従来のもので間に合っているわけである。また、国別対抗という側面もある大会のため、チームユニフォームとして同じウエアを共有する習慣も壁となった。
石川「各チームの競技者全員分のデータを取り、それぞれにカスタムメイドを行うことは現実的ではありません。それでもできる限り各選手の体型に合わせ、ウエアの機能を正確に発現させるために、急遽モスクワ世界陸上(2013年)にウエアを提供する国のメンバーの体形データを取りに行きました」
当然ながらサイズが違えば、生地の伸びが変わり、尺を変える必要がある。またそれぞれのサイズごとに効果が出ることも実証しなければならない。
日本国内の大学生スプリンターを対象とし、エネルギーロスが起こる部位にセンサーを貼り付けて徹底的にデータを測定する実験を重ねた。さらに体格の違う欧米系の選手のところへも赴き、生地の尺を調整し、効果を検証してようやく完成にこぎ着けた。
完成品を実際にルメートル選手や各国選手に着用してもらったところ、高評価を得た。その結果、HL-0スプリントスーツはリオ五輪で日本、フランス、オランダ、イタリア、フィンランド、韓国の6カ国で導入実績を挙げている。
その日、その場でカスタムメイドギアが作れる未来
悪戦苦闘しながらも、製品を完成にまで導いた2人。そんな彼らに開発現場の未来について聞いてみた。
谷口「3Dプリンターの登場で、ものづくりのプロセスが一気に変わる可能性があります。シューズの場合、今までは図面を描き、金型を作成し、成形や組み立て工程を経て、月単位でやっと形になっていたものが、わずか数日で完了するんです」
また、デジタルシミュレーション技術の進化も目覚ましいという。これまで測定したデータを基に人間の体をパターン化し、データを蓄積。そのため、プロダクトとして形に起こす前の段階で、ある程度の性能評価ができるそうだ。今回のギア開発当時の5~6年前と比べるとその差は歴然だという。
そして石川氏は、最先端のデジタル技術を駆使して、すでに東京五輪に向けたプロジェクトを進めている。
石川「これからさらにセンサーが小型化して、今まで測れなかった部位の測定が可能となれば、人の動作をより精密に研究することができるようになります。そのため、よりその場、その瞬間、その人に合ったギアが作れるのではないかと考えています」
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全身にセンサーを貼って、人の動作を定量的に分析する様子
日々加速していくスポーツ製品開発の世界。けれど、その中にも決して変わらないものもあると最後に谷口氏は教えてくれた。
谷口「それは研究者や開発メンバーが一切妥協せず、とことんやりきるということです。ありがたいことにアシックスにはそういうことをやらせてくれる環境があります。若手には、このような環境でとことん考え、とことんやりきって欲しい。次の五輪では、今すでに走りだしている石川たち後輩に託したいと思います」
進化するテクノロジーを積極的に取り入れる姿勢と、挑戦への変わらぬ意志が彼らから失われない限り、人間の限界を超えた記録が、また一つ更新されることだろう。次の東京五輪では、どのような革新的なスポーツ製品がお目見えするのか、期待が高まる。
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text:伊佐治 龍 photo:中島克樹