2017.8.18
日本における宇宙開発のパイオニア・糸川英夫【後編】
初のロケット打ち上げに向けて全力疾走
アメリカの宇宙開発計画に刺激を受けた工学者・糸川英夫は、帰国後の1954(昭和29)年に国産ロケット旅客機の開発を夢見て精力的に動き始める。同志集めや予算の捻出、実験場所の確保まで、あらゆる逆境を跳ねのけて瞬く間に計画を形にしていく。日本の“宇宙開発の父”と呼ばれる天才の人生が、いよいよ本格的に動きだす。
資源の乏しさを好機と捉える!
米国から帰国した1954(昭和29)年、“超高速で飛べる飛翔体を作り、太平洋を20分で横断する”ことを目標に掲げた糸川は、まずロケットを作るメーカーを探すことに奔走する。
※前編の記事はこちら
当時の日本にはロケットの意義について理解が少なかったものの、糸川が大学卒業後に所属していた中島飛行機の後身である富士精密工業の若い技術者たちが全面的な協力を申し出た。
また、ロケットの研究に必要な燃料は、戦前から火薬製造の実績があった愛知県武豊町の日本油脂(現・日油)に勤めていた火薬のスペシャリスト・村田勉(のちの日本油脂社長)が、マカロニ状の小さな推進薬(固体ロケット推進剤の一種)を提供してくれることになる。
それは外径9.5mm、内径2mmの、ダブルベースと呼ばれる発煙低減のために開発されたもの。“宇宙へ向けて飛び立てるロケットを作る”という志の高さに比べると、スケールが小さいのは明らかだった。
「いいじゃないですか。これなら費用も抑えられるし、データを集めるために数多くの実験ができる。大きさにこだわっている場合ではないでしょう」
資源の乏しさを好機と捉えた糸川は、すぐに実験の準備に取り掛かる。1本5000円(現在のおよそ20万円くらい)の固体燃料を主体として、多くの小型ロケットが試作された。その中から生まれたのが、直径約1.8cm、長さ約23cm、重さ約200gのペンシルロケットだ。
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完成したペンシルロケット
画像提供:JAXA
マカロニ状の燃料はニトログリセリンとニトロセルロースを主成分としており、それに安定剤や硬化剤を混入し、圧伸機にかけて押し出す方式だった。
飛翔実験で重視したのは、発射時の安定性。最先端のノーズ・コーンの材料や尾翼の取り付け角度を変えられる構造にして、重心位置や尾翼面積が飛翔の安定にいかなる影響があるかをチェックしやすいようにした。
そして1955(昭和30)年2月末、糸川は東京・国分寺駅前の新中央工業の工場跡地を訪れた。そこは戦前にナンブ銃を製造していた工場で、製造した銃を試射するピットがあった。このピットをロケット発射用に改造し、何回かのテスト発射を経て、4月12日、いよいよ関係官庁・報道関係者立ち会いのもとで、公開試射が実施されることに。
準備が整い、糸川のカウントダウンが始まった。
「5、4、3、2、1、ゼロ!」
ペンシルロケットは長さ約1.5mのランチャー(発射台)から水平に発射され、細い針金を貼った紙のスクリーンを次々と貫通して向こう側の砂場に突き刺さった。ペンシルが導線を切る時間差を電磁グラフで計測してロケットの速度変化を知り、スクリーンを貫いた尾翼の方向からスピン(回転数)を計る。本格的な飛翔実験のための基本データを得るための実験だった。
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ペンシルロケットの実験風景のようす
画像提供:JAXA/ISAS
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高速度カメラによるペンシルロケットの発射記録
画像提供:JAXA
この水平試射は計6日間にわたって行われ、29機すべてが成功を収めた。速度は発射後5mくらいのところで最大に達し、秒速は110~140m程度だった。半地下の壕を利用した実験とはいえ、コンクリート塀の向こう側は満員の中央線が走っており、電車が近づくたびに実験をストップしていたという。
このペンシルロケットの水平発射は、この年の文部省の十大ニュースに選ばれている。日本人に未来への希望を抱かせる出来事だったのだ。
もちろん、全長約23cmのペンシルロケットは世界一小さいものだった。安価に、エネルギー効率よく作れることが当時の日本では最大の取り柄だったのだ。
その当時を糸川は以下のように回顧している。
「小さいながらもロケットの基礎要素を持ち、一通りの飛翔性能を持っているために、計画、試作、生産、試験、飛翔実験の全分野にわたって、ロケット工学にどんな問題点があるのかを学ぶことができるであろう。例えば、屋外の飛翔実験にどれほどの人員や費用が必要なのかを知ることができたのであって、それがペンシルの狙いであった」
太平洋横断を目指していた糸川は、いずれチームが大きくなることを予想して「開発チーム」を育てる考えが明確にあった。現在でも、種子島宇宙センターや内之浦宇宙空間観測所(いずれも鹿児島県)で打ち上げ作業を行うときには、数百人の人間がチームを作る。そのルーツを、1955年のペンシルチームに求めることができるのだ。
世界に負けない飛翔実験に成功!
国分寺での水平発射を無事に終えた糸川は、休む間もなく本格的な飛翔実験へと準備に取り掛かる。
難関だったのは、ロケットの打ち上げ場所を探すこと。当時、太平洋岸は実質的にアメリカが支配していたため、日本海側をめぐって、秋田県の道川海岸(現在の由利本荘市)を見つけた。ここに日本で最初のロケット打ち上げ場となる「秋田ロケット実験場」が建設されたのだ。
道川での歴史的な第1回実験は、長さ約30cmのペンシルロケットの斜め発射。1955年8月6日、夏の暑い空へ飛び立ったペンシルは、到達高度約600m、水平距離約700mを記録。飛翔時間は16.8秒だった。
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道川でのペンシルロケットの最初の発射
画像提供:JAXA
続いて、ペンシルロケットより少し大きい「ベビーロケット」が製作された。
直径約80mm、長さ約1200mm、重さ約10kgのベビーロケットは、同年8月末から9月にかけて次々と打ち上げられ、次世代の「カッパ・ロケット」への大きなステップとなった。
今から50年以上もの昔、ロケットの実験場への運搬には馬車が使われ、アンテナは手動のものであった。当時の日本で製造できる燃料は、直径約11cmのマカロニ状のものが最大で、これを基にして設計されたカッパ1型(K-1)ロケットは、高度10kmに達したものの、その後10kmを超えることができなかった。
そこで糸川は、サイズに制限がある燃料から、組成物を混合して任意の形の推進薬を作れるコンポジット推薬への移行を決断。
実験を再開し、1958(昭和33)年9月、ついに目標の高度60kmに達した。また、その2年後の1960(昭和35)年7月には、カッパ8型(K-8)ロケットが高度190kmへと到達する。
地球を取り巻く大気の上層部にある分子や原子が紫外線やエックス線などにより電離した領域となる、電離層のF層(高度150~800km)へとロケットが届くようになり、各種の宇宙観測を可能にした。電離層の中の昼夜のイオンの分布を世界で初めて観測するなど、本格的な観測ロケットとして世界の注目を浴びた。
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カッパ6TW型の前に並ぶ糸川英夫(左)
画像提供:JAXA/ISAS
引退後も衰えなかった好奇心
その後、糸川は国産の人工衛星打ち上げに並々ならぬ意欲を持ち、東大に宇宙航空研究所(後のJAXA)を創設した。
そして、高度1000kmを目指す「ラムダ計画」や、高度10000kmを展望する「ミュー計画」を推進する。このミュー・シリーズのロケットは、後にハレー彗星探査において「固体燃料ロケットによる地球重力圏脱出」という史上初の偉業を達成した。
糸川の念願がかなって、日本初の人工衛星である「おおすみ」の打ち上げに成功したのは1970(昭和45)年2月のこと。内之浦(鹿児島県)の発射場からラムダ4S型5号機が飛び出し、地球周回軌道に投入されたのが確認され、歓声が上がった。
旧ソ連、アメリカ、フランスに次ぐ世界で4番目の自立衛星打ち上げの快挙である。
しかし、このころの糸川は後進に道を譲り、すでに東大を退官していた。「おおすみ」誕生のニュースを中東の砂漠でドライブ中にラジオで聞いて、涙が止まらなかったと述懐している。
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「はやぶさ」が観測した小惑星「イトカワ」の画像
画像提供:JAXA
東大を退官してからも、糸川は少年のような無邪気な好奇心を持ち続けたという。
60歳を過ぎてからバレエを習い始め、大好きな音楽を追求するべくバイオリンの制作にも情熱を注ぐ。そして、自ら手がけた「ヒデオ・イトカワ号」で「80歳のアリア」と称し、なんとコンサートまで開催してしまう。老いてなお、多方面で才能を遺憾なく発揮していたのだ。
そして1999(平成11)年、療養先の長野県丸子町(現・上田市)の病院で静かに人生の幕を下ろす。享年86。
4年後の2003年、日本の小惑星探査機「はやぶさ」打ち上げから3カ月後、探査機の目的地である小惑星(25143)が糸川英夫にちなんで「イトカワ」と命名された。探査機の名前が、かつて糸川が開発に携わった戦闘機「隼」と同名だったのは有名な話だ。
また、日本の宇宙開発を推し進めた立役者である糸川が、1974(昭和49)年に出版した著者『逆転の発想』はベストセラーになった。今でも科学者やビジネスマンに読み継がれている名著である。
最後に、糸川が残した言葉を紹介しよう。
「人生で大切なのは、失敗の歴史である」
「目標に向かって、一段ずつ階段を上っていく上で、一番肝心なことは、必ず最初の一段を上がるということである。そしてまた次に一段上がるということである」
「『自分にできること』よりも、『世の中が求めていること』に挑戦し続けた方が、人生も楽しい」
日本の“宇宙開発の父”と呼ばれるほどの功績を残した糸川英夫。いつか一般人の宇宙旅行が当たり前の時代になろうとも、並々ならぬ情熱で困難に立ち向かった彼の人生が日本人に勇気を与え続けることは間違いない。
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text:浅原聡
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