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世界中で普及したテレビアンテナの生みの親・八木秀次【前編】

先見性と情熱で“電子立国日本”を牽引した

現在も世界中の住宅やビルの屋上に設置されている“魚の骨”のような形状をしたテレビ放送の受信を主としたアンテナ。正確には「八木・宇田アンテナ」と呼ばれ、発明から90年以上たってもテレビなどの地上波放送の受信に欠かせない設備として活躍している(日本では地デジ化により消滅)。エネルギー分野で世界に貢献した偉人を紹介する連載の第2回は、その生みの親である工学者・八木秀次にフォーカス。国内でいち早く電気通信分野の重要性を予見し、研究と教育の先頭に立ってきた“テレビアンテナの父”の足跡をたどってみよう。

文学青年から科学者へ

ラジオやテレビで好きな番組を見る。

1886(明治19)年に生まれた八木は、後に現代人が当たり前のように享受している「特定の電波を自由に受信する」技術の礎を築く科学者になる。

ただ、幼いころから科学に魅せられていたわけではなかった。

中学のころは文学青年としての青春を謳歌。当時のヤングたちの愛読書であった詩集『花紅葉』や、新風の詩がつづられた土井晩翠の『天地有情』を読みふける日々を過ごしていたという。当然、周囲は文科系に進学すると思い込んでいたが、その予想に反して八木は理系の道に進む。

この転換に関して、彼自身は「熱病にかかって頭脳が文化的から理科的に変わった」という説明をしたと伝えられている。真相は定かではないが…いかにも天才肌な偉人が残しそうな言葉である。

さて、第三高等学校から東京帝国大学工科大学(現・東京大学工学部)に進んだ八木は、大学卒業と同時に仙台高等工業学校に招かれ、教壇に立つことに。24歳のときだ。

そして、1913(大正2)年の2月に、文部省から3年間のイギリス、アメリカ、ドイツの海外留学を命ぜられる。この留学こそ、彼の電気通信研究の契機となったのだ。

まず、ドイツのドレスデン工科大学では、電気振動の世界的権威であるH・G・バルクハウゼン教授の研究室を訪ねる。「連続した電波を空間に放射することが可能かどうか」という、時代の先を行く研究に没頭した。

というのも、日本ではまだ“火花で電磁波を発生させる”という原始的な送信機を使った無線電信が全盛の時代であった。それでは連続した電波が得られず、発生する電波の周波数を選ぶことも難しい状況だった。そこで八木は、送信機の研究が進んでいたドイツで持続電波発生に関する研究を行ったのである。

1919(大正8)年ごろ、34歳の八木秀次*八木アンテナ株式会社『八木アンテナ40年史』より転載

イギリスのロンドン大学では、二極真空管の発明と「フレミングの法則」で知られるJ・A・フレミング教授に師事し、1年間研究室を独占して持続電波発生の実験を続けた。翌年に門をたたいたアメリカのハーバード大学では、数学者のピアス教授の研究室へ。当時のアメリカでは、前述の火花式送信機よりも性能に優れる真空管式送信機の開発研究が注目されていた。

こうして歴史的な科学者の下で最先端の技術に触れていくことで、八木の関心はどんどん無線学に移っていった。

「無線学は非常に魅惑的なものであって、一度この研究をした者は一生抜け出せない」

このフレミングの言葉を、八木は忘れられない言葉の一つとして述懐していたという。ちなみに、この3年間の留学の間に彼の頭髪は別人のように薄くなってしまい、帰国後たびたび人違いされたとか…。心身を削って研究に没頭していたことがうかがえるエピソードである。

八木自身が留学時代の日常生活や研究の様子をつづった『技術人夜話』*八木アンテナ株式会社『八木アンテナ40年史』より転載

世界を震撼させた「ヤギ・ショック・デー」

日本に帰国した八木は、1919(大正8)年に東北帝国大学(現・東北大学)の教授に就任。「今後は弱電の技術が社会に貢献する時代がくる」と信じて、無線通信に関連した電波、電気振動、真空管などの研究を中心に行った。当時、電気工学では強電工学の研究が主流であったため、時代に逆行するような彼を疑問視する者が少なくなかったという。

しかし、そんな八木の方向性を支援するように、1921(大正10)年にバルクハウゼン教授が、画期的なマイクロ波真空管を発表。八木は、将来の電波通信はさらに超マイクロ波の活用に向かうことを予見し、その研究に情熱を注いだ。

そして、1923(大正12)年、ついに「八木・宇田アンテナ」開発の発端となる出来事が起きる。

きっかけは偶然だった。八木の助手である宇田新太郎の同級生が、マイクロ波を用いた単巻線コイルの固有波長を測定しているとき、たまたま送信機とアンテナの間に金属棒が置かれていたことで、その電波だけが異常に強くなったのだ。

今となっては当たり前の現象かもしれないが、時代背景が同じ朝ドラで例えるなら「びっくりぽん!」な瞬間だった。

というのも、当時のアンテナは支柱に1本の金属棒が設けられたT字型が主流で、全方向から電波を受け取ってしまう仕組みだった。要するに、特定の方向に対してだけ強い電波を放射&受信することが難しい、なんとも効率の悪いアンテナだったのだ。

「金属棒の数や向きを工夫すれば電波に指向性(特定の方向に集中する=余分な方向から雑音が入りにくく感度が良くなる)を与えられるのか!?」

そう思った八木は、その理論的・実験的な裏付けを助手の宇田新太郎に行わせる。そして、1926(大正15・昭和元)年にいよいよ「八木・宇田アンテナ」が発明された。

その仕組みはシンプルだ。金属の棒を並べて捉えた電波を増幅していき、後方に漏れた電波を除外する反射器を設置。アンテナそのものに障害物を置くことで、一方向の強い電波の受信を可能にした。

90年以上たった今でも世界中で使われているテレビアンテナの原形が誕生した瞬間だ。

1930(昭和5)年ごろに製造された八木・宇田アンテナ*八木アンテナ株式会社『25年のあゆみ』より転載

そして、その年に東京で開かれた第3回 汎太平洋学術会議にて、八木は宇田との共著で「新電波投射器と無線燈台」「電波による電力輸送の可能性について」と題する2編を報告、発表。これらの研究は外国において「超短波論文の古典」として高く評価された。

また、1928(昭和3)年のアメリカでの講演は、ニューヨークやワシントンをはじめ全米各地にセンセーションを巻き起こし、「今日はヤギ・ショック・デー」だと絶賛されたという。

国内ではまさかの低評価

1933(昭和8)年11月、日本で最初の八木・宇田アンテナが山形県酒田市と飛島間の一般公衆用超短波無線電話局に設けられた。

飛島は酒田から海上およそ40kmにある離島で、電報も船で運んでいたところである。海がしけて船の運航が途絶えると本土との連絡が不可能に。ラジオすらなく、大正天皇崩御によって年号が変わったことを知ったのはひと月後というような環境だった。

それが八木・宇田アンテナよって電話やラジオが使えるようになったのだから、島の人々の喜びは相当のものだっただろう。

八木・宇田アンテナを用いた2番目の施設には、新潟〜佐渡島間の警察用電話がある。

しかし、八木・宇田アンテナが発明されて10年の間に実際の施設に使われたのは、わずかこの2局だけ…。

歴史背景からみても、新しいモノや文化に保守的だった日本では、八木の研究は時代の先を行き過ぎていたのかもしれない。欧米諸国ではセンセーションを巻き起こしながら、国内では意外にも関心を得られなかったのだ。

あろうことか、1941(昭和16)年には「重要な発明と認めがたい」という理由で商工省から特許期限の延長を却下されている。やがて起こる日華事変・太平洋戦争でも、日本では軍事的には非常に有効な電波、特に短波の利用は重要視されていなかった。

一方で、欧米諸国は八木の発明した理論を電波兵器の至る所に応用していた。

1942(昭和17)年、太平洋戦争でイギリス軍とアメリカ軍のレーダーを押収した日本軍は、その取扱説明書に「YAGI」という言葉が頻繁に出てくることに気づく。さらに、捕獲したアメリカのボーイングB17からも八木アンテナを発見! 自分たちが軽視してきた八木・宇田アンテナの研究の差を、皮肉にも対戦中に交戦国から突きつけられたのである。

もはや研究の遅れを取り戻すのは手遅れ。日本軍は敗戦へと向かっていった。

その後、日本にようやく八木・宇田アンテナが定着するのはテレビ放送が開始した1953(昭和28)年のことだ。



<2017年4月21日(金)配信の後編に続く>
会社設立を契機に八木・宇田アンテナが日本中の家屋に!

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