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世界中で普及したテレビアンテナの生みの親・八木秀次【後編】

「八木・宇田アンテナ」が世界中のテレビ受信アンテナに!

「テレビジョンが日常生活に侵入する時代が来る」。開発から30年あまりが経過してもなお、「八木・宇田アンテナ」はなかなか日本で評価されなかった。それでも開発者の八木秀次は、その技術が社会に貢献する日が来ることを信じて歩みを止めなかった――。

八木アンテナ株式会社の設立

1945(昭和20)年8月15日。第二次世界大戦が終戦を迎えた。

欧米列強は八木の発明した理論を応用して最新の科学兵器を作った。それに対し、日本は最終的に必死必中の神風特攻隊を必要とするに至った。

兵器研究の遅れを取り戻すべく、八木は民間の文化人や国民の期待を背負い、終戦前年に技術院総裁に就任したものの、時すでに遅し。戦争の大勢はすでに決していた。

追い込まれたときこそ“神懸かり”的なパワーを重んじる軍部にとって、精神力よりも、他国に後れをとっていた科学兵器の必要性を説く八木は煙たい存在でしかなかった。そして、終戦の年に総裁の職を追われてしまう。

前編でも触れたように、いち早く電気通信分野の重要性を予見していた八木の研究と思想に、日本という国が追いつくまでには時間がかかったのである。
※前編の記事はこちら

終戦の翌年、八木は大阪帝国大学総長として教育界に復帰したが、それもつかの間、わずか10カ月ほどでGHQ(連合軍総司令部)の公職追放者指定を受けて職を辞することになる。

GHQは兵器となるような技術開発を禁止しており、航空機の開発などを一切許可していなかった。レーダーのアンテナとしても応用できる八木・宇田アンテナの発明者である八木が公職に就き、さらに研究することを阻止したいと考えたとしても不思議ではない。

1955(昭和30)年ごろの八木秀次*八木アンテナ株式会社『25年のあゆみ』より転載

話を少し巻き戻そう。

1940(昭和15)年、八木は電気学会の会長だった。その当時から先見性の鋭さを証明する“予言”をしていた記録が残っている。

まず、「将来、中性子工学なる新分野(現在の原子力工学)が発展して、驚くべき社会的変革が始まるだろう」と提言。

さらに、電子工学(中性子工学)の発展について、要約すると次のようなコメントをしている。

「今後、電子管の応用は目覚ましく発展する。無線・電話・ラジオ・写真伝送・テレビジョンをはじめとして、国民の日常生活にまで侵入すると予期される。特にテレビジョン技術は放送局からの放送のみに留まらず、他のいろいろな方面に役立つだろう。社会に大きな貢献を成すことに期待をかけてよいことは疑う余地のないところである」

75年も前から、まるでテレビ放送の未来を知っていたかのようだ。

八木は、来るべきテレビ時代に向けて、日本ではいまだに日の目を見ない「八木・宇田アンテナ」の“技術を製品化しておきたい”と考えた。

そして1952(昭和27)年1月29日、資本金250万円で、アンテナの製造および販売を目的とした八木アンテナ株式会社を設立し、取締役社長に就任。このとき八木は67歳だった。

これを契機に、“日本が生んだ世界のアンテナ”は世界中の民家の屋根に林立することとなり、遅咲きの大輪を咲かせたのだ。

記念すべき第1号の八木アンテナのポスター*八木アンテナ株式会社『八木アンテナ40年史』より転載

そのころには、前述の公職追放者指定が解除されており、八木は日本学士院会員に選ばれ、1951(昭和26)年に八木・宇田アンテナの発明に対して藍綬褒章を授与された。

あたかも八木の追放解除を待ち受けていたかのように、その後も次々と栄誉がもたらされることになる。

テレビ放送開始! 八木の積年の夢が叶う

一方、1953(昭和28)年のテレビ放送開始に先立って、テレビ事業は多くの政治的・技術的な問題を抱えていた。

日本のテレビ放送標準方式を決める上で、周波数帯域幅を6メガヘルツにするか7メガヘルツにするかといった“6メガ・7メガ論争”が起きたのである。

郵政省・電波監理委員会はアメリカが先行採用している6メガヘルツ案を主張した。八木もこの案を支持する発言を残している。

しかし、NHKや日本電子機械工業会は関係者間で合意した7メガヘルツ案を主張。真っ向から対立する図式となった。

そこで、歯に衣着せぬ物言いで知られる八木は、7メガヘルツ派に向けて次のような発言をしている。

「アメリカでは白黒式も天然色(カラー)も6メガヘルツなのに、日本の技術者は天然色は7メガでないとできないと言う。だから白黒式にも7メガヘルツを許せという主張はいかがなものか。天然色の放送が広まるのはまだ何年も先のことだ。その間に6メガで立派に天然色テレビを実現するべく研究しようともせず、アメリカよりも広い波帯幅を許してもらいたいとは、あまりにも自信のない話である」

結局、6メガヘルツ派が押し切る形で、走査線(テレビ放送の画面を分解した細い線)525本のアメリカ方式が採用となり、今日に至っている。

そして、同年2月にNHKがテレビ本放送を開始。8月には日本テレビ(初の民放)放送も始まり、日本はテレビ大国への道を歩みだすこととなる。

6メガヘルツでのカラー放送は、きれいな映像を受信するためにさまざまな技術開発が要求される結果となった。これが日本のカラーテレビ技術を発展させる上で大きな原動力となったのだ。

ちなみに、テレビ放送が開始された2月当時の視聴者は、東京周辺においてわずか1200世帯程度であったが、その年の12月には2万世帯に達するという驚くべき増加数を示した。

以降、八木アンテナ株式会社はテレビ幕開け時代の受信アンテナメーカーのパイオニアとして、創業以来進展の一途をたどっていく。

初期のテレビアンテナ(YAGI-L3)*八木アンテナ株式会社『八木アンテナ40年史』より転載

1955(昭和30)年に、八木は武蔵工業大学学長に就任。また、その翌年の11月3日には、長年の功績が認められ文化勲章を受章する。八木秀次、70歳のときのことだった。

1958(昭和33)年には、デンマーク工学アカデミーからプールゼン金牌が贈られ、その4年後、スイスでの第2回 国際テレビ・シンポジウムにおいても表彰されている。

1964(昭和39)年2月ごろの八木秀次*八木アンテナ株式会社『25年のあゆみ』より転載

そして1960(昭和35)年5月、八木アンテナ株式会社の社長を退任し、引退後も日本学士院会員として活躍した。

1973(昭和48)年10月に病に倒れ、1976(昭和51)年1月19日に静かな眠りにつく。89歳だった。

八木が発明したアンテナは、テレビ用として従来の狭帯域性から広帯域に改良されているが、その本質は現在も変わっていない。さらに地域防災無線・船舶・航空機の安全航行など無線分野の多岐にわたって活用されている。

「若い人はまだまだ勉強が足りない」

「開拓者は不遇な目に遭うものだが、それでも新しいことに挑戦してほしい」

八木は晩年までそう口にしている。

偉大な科学者、パイオニアからのエールを深く胸に刻み、明るい未来を見据えて日々歩もうではないか。

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