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耐震構造理論の生みの親・内藤多仲【前編】

東京タワーや大阪通天閣の構造設計を担った偉人

1950年代(昭和25年~)。まだ現在ほど都市が混み合っていなかった時代に、天を突くような3つのタワーが生まれた。名古屋テレビ塔、大阪通天閣、そして東京タワー。地震大国の日本がこのように世界に誇れる高さのタワーを建設できるようになったのは、設計を担当した“塔博士”として知られる内藤多仲(ないとうたちゅう)の功績が大きい。エネルギーの釣り合いなど、独自の耐震構造理論で数々の建造物の設計を手掛け、あらゆる産業の発展に貢献した偉人の足跡をたどってみよう。

建築様式が激変する時代に生まれる

江戸時代後期の1855(嘉永7・安政元)年に起きた安政の大地震や、マグニチュード が8.0に達したといわれる1891(明治24)年の濃尾地震、そして1923(大正12)年の関東大震災──。町を一瞬で崩壊させてしまうような大地震に繰り返し襲われてきた日本では、長い間“高層建築は不可能だ”と考えられてきた。

しかし、現在では高さを競うように高層ビルやタワーマンションが立ち並んでいる。その先駆けとなったのが1958(昭和33)年に完成した東京タワーだ。ご存じのとおり高さ333m。世界有数の地震大国である日本が、当時世界一高い鉄骨の塔を造ったのである。構造設計を担当したのは、早稲田大学理工学部長であり日本建築学会会長も務めていた内藤多仲だ。

世界の建築家たちは、彼を「耐震構造理論の生みの親」と呼ぶ。

早稲田大学理工学部長を務めた内藤多仲

画像提供:早稲田大学

建設中の東京タワー

画像提供:TOKYO TOWER

内藤多仲が生まれたのは1886(明治19)年。山梨県甲府盆地の一角で、農家の子として誕生した。標高2000mの南アルプス連峰の麓である山梨県中巨摩郡(なかこまぐん)榊村(現・南アルプス市曲輪田)で少年時代を過ごす。算数が得意な子供だったという。

当時の日本は文明開化の真っただ中。その波は建築の分野にも及んでおり、石やレンガを材料とする新しい西洋の建築技術が輸入されたことで、木と紙と土がベースだった日本建築に変化が訪れようとしていた。

最初期の本格的な西洋式の大工場群である大阪造幣寮(明治政府の貨幣鋳造機関)をはじめ、鉄道の駅舎や学校建築などに次々と西洋式の技術が採用されていた。設計を担当していたのは、明治政府によって招かれたイギリス、フランス、ドイツなど先進国の建築技術者だった。しかし、それらの新しい建築技術も、残念ながら地震に対してはめっぽう弱かったのである。

1891年に濃尾地方を襲った大地震が、レンガ蔵や石造建築のもろさを露呈した。およそ14万戸の家屋が倒れたといわれ、名古屋の伏見と栄の間に立っていたレンガ造りの名古屋郵便電信局の2階が吹き飛ぶように消滅している写真が残っている。それを見て、世間で“レンガ造りは地震に弱い”という風潮が高まり、建築における耐震の重要性が見直されるきっかけになった。

濃尾地震の時のようす

画像提供:鶴舞中央図書館所蔵

そして、1906(明治39)年にアメリカでサンフランシスコ大地震が起きる。この現地調査のために渡米した、建築家にして帝国大学工科大学教授の中村達太郎と佐野利器(としかた)の2人は「建築の耐震性を強化する方法は鉄筋コンクリート建築が一番優れている」という結論を発表した。その後、佐野利器によって日本で初めての本格的な鉄骨構造の建物が設計・施工された。それが日本橋の丸善書店である。

また、鉄骨建築の先駆者である横河民輔の手によって駿河町三井本館(旧三井本館)が竣工。日本の近代建築技術史を代表する建造物だった。

こうして1800年代後半から1900年代初頭にかけて、日本の建築技術やその様式は地震を通して急速に新しい時代への発展を早めていく。それまで構造学と呼ばれていた建築の学問体系が、正式に建築学と呼ばれるようになるのである。

トランクをヒントに耐震構造を考案!

そのころ、内藤多仲は甲府中学、第一高等学校を経て、1907(明治40)年に東京帝国大学建築学科に入学する。その時代、明治後期の建築物は規模、様式共に重厚、華麗さを増していた。しかし、西洋建築の影響を脱しきれず、構造は鉄骨を使いながらも外装にはレンガや石を用いるなど、かかるエネルギーの不均衡、耐震性への配慮は決して十分とはいえなかった。

1910(明治43)年、早稲田大学に建築学科が創設。内藤多仲は教育者として歩み始め、1917(大正6)年には宿願のアメリカ留学を果たす。ボストン工科大学土木科の門をたたき、同大学の名誉教授であるスヴェン博士の力学についての講義にインスピレーションを得る。

■不利益な力を除去すること
■材は曲げに弱くたわみやすいため、圧力と張力に置き換えること

しかし、この力学の法則をどうやって地震の多い日本の建築に適応させたら良いのか、明快な回答は得られなかった。

地震国の日本から、地震の少ないアメリカに何を学びに行ったのか……内藤多仲は大いに悩んだ。そして、帰国の船上で、あるヒントをつかむことができたのである。

とある海域に入り天候が悪化、嵐が襲いかかりすさまじい船の揺れを体験する。その際にアメリカから持ち帰った大型トランクだけが、その揺れにも耐えてつぶれなかったのだ。注意深くトランクを眺めてみると、中蓋が1枚の間仕切りの壁となって支えていることが分かった。

「菓子箱はふたがなければすぐにゆがむ。だが、ふたをすれば丈夫になる。同じように、このトランクも間仕切りのふたがあったからつぶれなかったのではないか? そして、外側から縛った太い縄がこの構造物を強くしていたからではないのか…!?」

内藤多仲がヒントを得たトランクは、現在も早稲田大学が管轄する内藤多仲博士記念館で保管されている

画像提供:早稲田大学

この理屈を建物の構造で考えたらどうなるのか──。

壁のない骨組みだけの場合は、地震が来ればたちまち変形してつぶれてしまう。しかし、これに壁を入れた場合はエネルギーが均衡することにより変形しにくくなる。彼は、この壁を地震に耐える“耐震壁”と名付け、その理論の体系化、そして構造計算方式の確立を急いだ。

そしてそのころ、構造設計を依頼されていた建物にこの耐震壁理論を持ち込んだ。まず歌舞伎座では、舞台と客席を大きな箱に見立て、四方の壁を耐震壁、屋根をそのふたと考え、日本興業銀行本店では金庫や便所、エレベーターなど、要所要所の壁を耐震壁として構造設計を行った。1918(大正7)年には、建築構造学を世に伝えるため、日本建築学会の建築雑誌に架構建築耐震構造論を発表。豊富な実験データによって、耐震構造理論の体系化を進めた。

1924(大正13)年に竣工した歌舞伎座(岡田信一郎設計)。鉄筋コンクリートの箱の上に鉄骨の屋根をかけた構造

画像提供:株式会社歌舞伎座

当時はアメリカの建築会社が日本に進出しており、鉄筋コンクリートや鉄骨の柱と梁による構造で、経済的で工期も短いオフィスビルを丸の内などに次々と建設していた。しかし内藤は、コストがかさんででも鉄筋コンクリートの壁を要所に入れたり、鉄骨を鉄筋コンクリートで包んで地震による変型を防ぐ独自の方式を譲らずに歌舞伎座を竣工させた。

そして1923年9月1日。関東大震災が東京を襲った。死傷者は10万人以上。家屋の倒壊はおよそ26万戸、そして焼失した家屋は約45(全焼は約21)万戸。これは日本の建築界にとって大きな試練であった。建物の耐震性を考えさせられる一大実物実験となったのである。

内藤多仲は若い学生を伴って現地調査を開始。丸の内のビルはつぶれていたが、日本興業銀行や歌舞伎座はなんと無事だったのだ。

関東大震災を契機に、日本独自の近代的な建築構造学は急速に発展する。内藤多仲の構造理論の幅の広さや正確さは、設計者たちの建築表現の可能性を豊かにし、拡大することにもなった。これを機に彼の名声は不動のものとなる。

その後、第二次世界大戦の最中、日本建築学会会長を務めながら早稲田大学理工学部長として教鞭を執る。終戦を迎えると、荒廃した都市を復興させるべくエネルギッシュな活動を開始する。日活国際会館をはじめ、東京厚生年金病院や明治生命館などは戦後間もない復興期のころ、内藤多仲が構造設計を担当した代表的な建物である。

オフィスビルや百貨店から、工場や発電所などの産業施設まで、内藤多仲が構造設計を行った建築は約60年で500にも上る。

1934(昭和9)年3月に竣工した明治生命館。列柱を持つ特徴的な外観や、内部に広間を作るという高い技術力を要する構造で、1997年に昭和の建造物として初めて重要文化財の指定を受けている

(C)a_text / PIXTA(ピクスタ)

また一方、日本では1925(大正14)年にラジオ放送がスタート。安定した放送を実現するために、大規模な電波塔の建設が求められていた。

設計依頼が届いた内藤は最初に東京放送局(現・NHK)愛宕山放送局鉄塔(45.4m)を手掛ける。その後も「鉄塔造りは、私に課せられた宿縁」と意欲的に日本の鉄塔づくりに参画、エネルギーを注いでいくことになる。



<2018年3月12日(月)配信の後編に続く>
ついに東京タワーや大阪通天閣の構造設計に着手!

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