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CASIOの礎を築いた希代の発明家・樫尾俊雄【後編】

時計、電子楽器への新規参入!そこでも独自路線を貫く

樫尾俊雄が開発した独創的な計算機を進化させることで、カシオ計算機の業績は大きく伸びた。1975(昭和50)年には電卓の生産台数が累計1000万台を突破し、成長も右肩上がり。それでも、根っからの発明家である俊雄は歩みを止めない。次なる一手として、腕時計の開発を手掛けることに。

腕時計に世界初の機能を搭載!

「煩雑な計算から人々を解放したい」と、計算機の開発に情熱を注いだ樫尾俊雄。自らの発明で社会に貢献することを願っていた彼が、腕時計に目を付けたのは不思議なことではない。計算機の技術を使えば時計はもっと便利になり、人々の暮らしに役立つと思ったからだ。
※前編の記事はこちら

発明家としてのモットーは「0から1を作る」こと。常に世界を先駆けた商品を手掛けることを目指していた

しかし、電卓メーカーが時計の業界に新規参入するからには、目新しい機能がないと勝てない。そこで俊雄は、30日までの月と31日までの月、さらにうるう年も自動で判別して、常に正しい日付を表示するオートカレンダー機能を組み込んだデジタル腕時計「カシオトロン」を開発。

1974(昭和49)年に発売した「カシオトロン」。ボタンを押すことで、時刻と月・日・曜日を切り替えて表示する。5万8000円と6万5000円の2シリーズを発売。回路にはLSI(大規模集積回路)を採用し、省電力設計により世界で初めて3Vの低電圧による腕時計の駆動を可能にした

オートカレンダー機能を備えた腕時計は世界初登場。“時計は1秒1秒の足し算”と考え、計算機で培ってきた技術を応用した電卓メーカーならではの商品だった。

1978(昭和53)年には、台湾にあった米国の時計メーカーのケース製造工場を買収してケースも自社生産するなど、価格をどんどん下げて初代モデル発売の4年後には1万円を切る製品を世に出した。しかし当時は、時計はほぼ専門店で扱われており、セイコーやシチズンなどの大手メーカーと卸売り団体、時計専門店が太いパイプでつながっていた。したがって当初は販売網作りに苦戦したものの、安価で高機能なデジタル時計の価値が次第に認められ、販売は順調に伸びていったという。

実際に、時計への進出直後の1976(昭和51)年に48億円だったカシオ計算機の売上高は、5年後の1981(昭和56)年には一気に500億円を突破。時計の売上高はカシオ全体の3分の1ほどを占めるまでに成長した。

その後、衝撃に強く、後世に語り継がれる名品「G-SHOCK」を1983(昭和58)年に発売。当初は売れ行きが悪かったものの、一足先にアメリカでブレイク。アイスホッケー選手がスティックで打っても壊れないCMを流したところ、大きな評判に。平成に入ってから、国内でも若者向けファッション雑誌などでアメリカでのヒットぶりが紹介されると、新商品の発売前から行列ができるほどの人気商品になった。

時計が成功したカシオはさらに成功するが、一方で俊雄は別の新規事業に夢中になっていたという。

発売された最初の「G-SHOCK」

「誰でも弾ける」楽器の開発に着手

発明家・樫尾俊雄にとって念願のプロジェクト──。

それは電子楽器だった。子供のころから音楽が好きで、ギターやアコーディオンを弾きたかったがマスターできなかった彼は、日ごろから「デジタル技術を使って楽器ができないか」と考えていたのだ。

俊雄の電子楽器への情熱、傾倒は並々ならぬものがあったという。なんと自宅の部屋を改造して、大型スピーカーを据えつけて研究室に! 音響効果を高めるため、大理石の壁、特別に取り寄せた絨毯を敷くほど…。決して楽器の演奏長けていたわけではなく、演奏ができなかったからこそ“誰でも弾ける”楽器の実現を強く願っていたのだ。

何事も基本から。「音とは何か」と考えたり、「人に耳はなぜこうなっているのか」と、俊雄は耳の構造の研究までしている。「なぜ、ウグイスは“ホーホケキョー”と鳴くのか。なぜ、ニワトリは“コケコッコー”と鳴くのか」と、学者のような質問を投げかけて弟たちを困惑させていたとか。

そして1980(昭和55)年、最初に発売した電子楽器が、キーボードの「カシオトーン」だ。子音・母音システムという独自の音源技術で、ピアノだけでなくギターやトランペットなど29種類の楽器の音色を再現できる画期的な商品だ。

1980(昭和55)年に発売された「カシオトーン201」。独自の「子音・母音システム」を搭載した、さまざまな自然楽器の音色で演奏が楽しめる電子キーボード

発売翌年に、前年は1000億円だった売上高が1500億円を突破。電卓に続く時計、楽器への新規参入で事業の三本柱を確立させ、経営規模は一気に拡大していく。

その後も、おのおののパーツが電子楽器1つ分の価格に相当するような「シンフォニートロン 8000」(1983<昭和58>年)や、破格の1万6000円で販売された「SK-1」など、俊雄は次々と新たな電子楽器を生み出していく。

「SK-1」はあらゆる音を取り込んで音源にできるというサンプリングキーボード。その価格のおかげもあって、販売数が100万台を超える大ヒット商品になった。難しそうな楽器を、誰もが楽しめるように、誰もが手に取れるような価格で提供する。俊雄の発明哲学が詰まった集大成のような商品だと言っても過言ではない。

1986(昭和61)年に発売を開始した「SK-1」

ちなみに、楽器の演奏が得意ではなかった俊雄は決して音痴だったわけではないが、道を覚えるのが苦手な“方向音痴”だった。兄弟とゴルフに行くときも、弟が車で先導。帰りも弟の車を追従して、そのまま自宅ではなく弟の家に帰ってしまうこともあったとか。

そのため、1973(昭和48)年ごろ、俊雄は「ドライブメモリー」という装置を自作している。センサーなどを用いて、通ってきた道を覚えさせ、帰りは道案内してくれるというもの。一方通行には対応できないなど、実用性が低く製品化には至らなかったが、まだカーナビがなかった当時において、その先見性と独自の発想力は、やはり天才だ。

庶民と同じように苦手なことがあり、それを克服したいという気持ちが強いからこそ、多くの人々に重宝される商品を発明することができたのだ。

自宅を発明記念館として公開

キャリア晩年を迎えてもなお、俊雄は発明家を引退するつもりはなかったという。

カシオの生みの親である樫尾4兄弟の長男・忠雄が1988(昭和63)年に社長職を退任したとき、次の社長は次男の俊雄が務めることが順当なはずだった。しかし、「俺は発明が天職。これからも発明を続けることが会社のためになる」と首を縦に振らなかった。そこで営業部門を統括していた三男・和雄が社長の座に就き、俊雄は会長職に。

俊雄は2012年に亡くなってしまうが、病床でも頭の中は常に発明のことでいっぱいだった。見舞いにきた弟に「今はこんなことを考えている」とさまざまなことを語っていたという。

俊雄の没後、その長男が働きかけ、研究室として使われていた自宅を一部改装して「樫尾俊雄発明記念館」として2013年にオープン。計算機から時計、楽器に至るまで、数々の過去のカシオ製品が並び、カシオの原点となったリレー式計算機「14-A」も動く状態で展示されている。

希代の発明家の功績や思想を学ぶには格好の施設で、カシオの幹部社員の研修や新入社員研修にも使われるという。

俊雄が兄弟と共に発明した世界初の小型純電気式計算機「14-A」(左)を展示している「発明の部屋」

俊雄が寝食を忘れて発明に明け暮れた書斎を「創造の部屋」として公開している

ちなみに現在、カシオがより複雑な計算が簡単にできるように進化させた関数電卓は、電気や建築などの技術計算や数学の学習に広く活用されている。

直近10年では、年間販売台数を約1.5倍に拡大しており、2016年には世界各国に2500万台を出荷。試験に持ち込み可能な国も多く、約100カ国強の教育市場・現場で使われているという。

勤勉な日本人は面倒な計算を自分ですることに意義を見いだす傾向があるが、大切なことは計算ができること自体ではなく、何かを解明できるようになること。日本の学校も“カシオ(計算機)持ち込みOK”が常識になれば、各分野の未来を担う若者たちが本来の学習に十分な時間とエネルギーをかけられるかもしれない。

樫尾俊雄という天才によって急速に進化した計算機、そして日本社会。その恩恵を受けて、また新たな天才が生まれることを期待したい。

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