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日本で初めて電球を作った偉人・藤岡市助【後編】

電車の考案設計、事業化にも貢献!

「電気器具の製造を手掛け、自分の国を自給自足で賄えるようにするべきだ」──。エジソンの発明や思想に感銘を受けた藤岡市助は、白熱電球の国産化に尽力する。一方では、日本初の電車やエレベーターも手掛けるなど、あらゆるプロジェクトに参画して成功に導いていく。“人の役に立つこと、国のために身をささげること”を信条としていた偉人の人生が、いよいよ本格的に動きだす。

日本初の炭素電球が誕生!

東京電燈株式会社から、電球事業を切り離す形で設立した合資会社白熱舎。日本で最初の電球製造所で、藤岡市助は昼夜苦心を続けていた。
※前編の記事はこちら

白熱電球を開発するにあたり、大きな問題となっていたのは、電流を通して発光させるためのフィラメント。試作開始当初は輸入した製造機械の方式に従って木綿糸の炭化物を使っていのだが、それでは非常にもろいものしか作れなかったのだ。

そこで市助は、エジソンの白熱電球に倣い、フィラメントの素材を京都産の真竹に切り替える。さらに試行錯誤を重ねていくと、故郷である山口県岩国の千石原(せんごくげん)に生える真竹の方が、より適した素材であることを発見する。

そして1890(明治23)年8月12日、ついに日本初の白熱電球が完成した。

日本初の白熱電球

東芝未来科学館所蔵

作り上げた白熱電球は12個。

当初はわずか2時間足らずの寿命だったが、電球国産化の糸口をつかみ、その後は実用に耐える製品を相次いで生み出す。

2年後の1892(明治25)年には、月の生産高が2500個を突破。そして明治30年代を迎えるころには、その品質を外国製電球と同等のところまで向上させていく。

こうして日本は市助の白熱電球により、電気器具の自給自足・エネルギー確立への第一歩を踏み出していく。

1893(明治26)年、35歳のときの市助

岩国学校教育資料館所蔵

自ら設計した電車を走らせる

実は市助は、白熱舎を設立する時期に、いくつかのプロジェクトに参画していた。代表的な取り組みは、電車の考案・設計だ。

外遊中に見た電気鉄道に刺激された市助は、1890年に東京・上野で開催された第3回 内国勧業博覧会に自らが考案・設計した電車を出品。会場に約400mのレールを設置して運転し、来場者に試乗させた。

これは、日本で初めて路面電車が走った輝かしい瞬間だった。

「第三回 内国勧業博覧会真景」

電気の史料館所蔵

その後、1895(明治28)年に、京都電気鉄道会社(後の京都市電)が営業を開始する。蹴上(けあげ/水力)発電所の電力を用い、技術面は全て市助が援助し、モーターは三吉工場とゼネラル・エレクトリック社が生産した。

三吉工場は、市助と同郷で幼少期から親交のある三吉正一が起こした電気工場だ。市助が考案した模型をベースに、三吉が国産発電機の第一号を完成させるなど、両者は密度の濃い協力関係を築いていた。

京都電気鉄道の車両模型

東芝未来科学館所蔵

また、1907(明治40)年、市助は中国地方で初めてとなる岩国電気軌道株式会社の取締役社長に就任し、電車運行開始に尽力。1909(明治42)年の開業当時の路線は旧岩国町新町─麻里布(現在の岩国)駅区間の約4kmで運行され、1929(昭和4)年まで市民の足として親しまれた。
さらに、現在の東海道新幹線にあたる「高速電気鉄道」のプランを練るなど、この分野(動力エネルギー)の先覚者として挑戦し続けた。

日本初のエレベーターを開発!

日本初の電車を走らせたのと同じ1890年、市助は日本初のエレベーターも手掛けている。
舞台となったのは、こちらも日本で最初の高層建築として注目を浴びていた東京・浅草の凌雲閣(りょううんかく)。高さ66m、12階建ての造りの塔だった。

市助は閣頂にアーク灯をつけ、敷地内を満月のように明るく照らした。そして、1階から8階までを約2分かけて昇降するエレベーターを設計。広さは約3畳、10人乗りで周囲に座布団付き腰掛けを配置し、大きな姿見と白熱灯も付いていた。

大人8銭、子供4銭を払えば誰でも昇れる塔で、凌雲閣は連日大盛況となる。

「大日本凌雲閣之図」

電気の史料館所蔵

東京白熱電灯球製造の社長に

一方、電球の注文が増えるにつれ、工場が手狭になった合資会社白熱舎は、東京白熱電灯球製造株式会社を創立することになった。市助は1898(明治31)年に専務取締役社長に選任される。

翌年、会社は営業目的を拡張して、電球製造業以外にも機械器具の製造や工事の設計も請け負うことを決め、社名を東京電気株式会社と改めた。

そして1905(明治38)年、市助はエジソンの会社・米国ゼネラル・エレクトリック社との提携を図る。電球をはじめとする特許やノウハウを吸収して、技術と事情の向上拡大が行われた。

1911年(明治44)年には、タングステン電球「マツダランプ」を発売。安価で丈夫な国産電球が普及していくことになる。

その後、東京電気の技術者により二つの発明(二重コイル/内面つや消し)がもたらされ、現在の白熱電球が完成。東京電気は海外企業に負けない競争力を持つ会社へと変貌を遂げ、1939(昭和14)年には、市助と親交のあった田中製造所の流れをくむ「芝浦製作所」と合併。 総合電気メーカー「東京芝浦電気(現・東芝)」が誕生する。

大規模発電所の建設にも貢献

ちなみに、市助は技師長を務めていた東京電燈株式会社でも多大な功績を残している。

東京電燈は、1890年に東京市内にあったもう一つの電灯会社である日本電燈と合併。そのころ、電力の需要は年々増加しており、発電所建設による電力供給能力の増加が必要となってきていた。

市助は、散在する小発電所からの配電ではなく、大型発電機を備えた中央発電所の建設を提案する。

そして1893年に、浅草で200kWの発電機を備える中央発電所の建設が始まった。日本初の大発電所だ。

国産200kWの大型発電機

電気の史料館所蔵

こうして市助は東京電燈の施設、設備の拡充と、人材の育成の職責を全うし、技術的内容の充実ができた機会に、技師長の任を退くことに。市助が41歳のころだった。

東京電燈は、その後年々業績が向上し、日本最大の電力供給会社の地位を確立。その後身となる現在の東京電力ホールディングス株式会社が、東京電燈の伝統を受け継いでいる。

こうして市助の歩みを眺めてみると、やはり日本の電気事業における貢献度の大きさは計り知れない。

生涯にわたり「至善」を貫く

1912(明治45)年2月27日、市助は脳出血で倒れ、その後長い闘病生活を送ることとなる。そして1918(大正7)年3月5日、風邪により肺炎を併発して重篤に陥り、帰らぬ人となった。享年62(満年齢は60年11カ月)。
市助は、最高の善を意味する「至善」を生涯の信条として貫き通し、“人の役に立つこと、国のために身をささげること”を実行し続けた。

その生涯の活動分野は、科学者、教育者、起業家、実業家、学界・業界団体の指導者など非常に多岐にわたっており、しかもどの分野でも超一流の存在だった。まさに「日本の電気の父」と呼ばれるにふさわしい人物であった。

後年の市助

東芝未来科学館所蔵

ものづくりにおける市助のDNAは後進に受け継がれ、その後の東芝におけるさまざまな発明につながった。

1955(昭和30)年には日本初の自動式電気釜を、1959(昭和34)年には世界初のヘリカルスキャン方式VTRを完成させる。また、1978(昭和53)年には日本初の日本語ワードプロセッサを製品化させるなど、人々のライフスタイルを劇的に変化させる。

これまで振り返ってきた藤岡市助の功績は「天才のなせる業」である。それでも、非凡な才能がなくても「至善」の精神は誰もが持つことができる。

今後、日本が再生可能エネルギーの技術革新や普及を進めていくには、先人と同じ志が必要なのではないだろうか。

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