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3.11復興のエネルギー

震源地に最も近い街・宮城県石巻のシンボル【前編】

最新鋭のトロール船と最新設備が整う魚市場、そして牡鹿半島のレガシー

岩手県釜石から始まった「3.11復興のエネルギー」特集の最終回として、再び北へ。向かった先は、東日本大震災の震源地に最も近い街・宮城県石巻。震災前年には約16万2000人が暮らしていた宮城県下第2の都市は、そのうち11万人余りが集中していた市中心部のほぼ全域を津波に襲われ、東日本大震災で最大の被害を受けている。海岸線から約4km内陸に入った市役所やJR仙石線を含め、平野部は壊滅的な状況だった。そんな石巻で底引き網漁のための小型スタン・トロール船が新造され、進水式が行われたと聞き取材に向かった。

最新鋭のFRP船はジャカルタへの恩返し

東北新幹線を仙台駅で降り、2015年のJR仙石線(あおば通─仙台─石巻間)全線復旧と共に新たに開業した「仙石東北ライン」で約50分。石巻駅のある市街中心部の街並みは、にわかには津波で壊滅的な被害に遭ったとは信じられないほど復旧していた。

それでも、車でほんの10分ほど海の方へ南下すると、震災後の火災もあり被害が甚大だった南浜・門脇地区はかさ上げ工事のただ中にあり、広範なエリアがまだ道路の舗装もされていない。今回の石巻取材のコーディネートをお願いした奥田弘幸さんは言う。

「横浜からボランティアで最初に入ったのがここでした。見える範囲、すべて津波に襲われ瓦礫でいっぱいで、呆然としたことを思い返します。ここで人生が変わった」

奥田さんは神戸の出身。横浜で会社を経営していたが、阪神淡路大震災の経験もあり、震災直後にボランティアとして石巻を訪れる。数日の予定が数週間になり、その後、石巻市南東部の牡鹿半島を拠点とし、2013年4月からは宮城県地域復興支援課・石巻市牡鹿地区担当の復興応援隊を委託(現在は委託終了)され、結局現在まで7年間にわたり牡鹿地区に移住してボランティア活動に従事している。

奥田弘幸さんは1963(昭和38)年生まれ、神戸市出身。最初に取材先の道中に立ち寄った南浜・門脇地区は災害危険区域に指定。「石巻南浜津波復興祈念公園」として整備される予定で、現在、慰霊碑や東日本大震災メモリアル「南浜つなぐ館」(写真下)が立つ

そんな奥田さんが「石巻の復興事例に」と、まず紹介してくれたのが取材の約1カ月前、この2月20日に竣工したばかりの小型スタン・トロール船「第二山神丸」のことだった。

古くから海運で栄えた石巻は、世界三大漁場と呼ばれる金華山沖合の漁場を擁する水産の街だ。

第二山神丸の船主、木村優治さんは牡鹿半島の表浜で底引き網漁を営む漁師。しかし訪ねた建物には「NPO石巻漁業実習協議会」とある。

石巻は水産の街である一方で、震災以前から深刻な漁業従事者の後継者不足という問題も抱えていた。そこで、木村さんをはじめとする石巻の船主がまとまり、石巻市と共に2007年にインドネシアの西ジャワ州と外国人研修・実習制度協定を結んで、職業訓練高校の漁業課を卒業した18歳以上を対象に日本での3年間の実習受け入れを行っていた。震災当時は30人ほどの実習生が来日していたという。

「私のところでは4人、受け入れていました。正直、実習生は津波に襲われて生きてないだろうと思いました…。石巻漁港で船のメンテナンスをしていましたから」

石巻の底引き網漁師、木村優治さんは1971(昭和46)年生まれ。市のメインストリート女川街道(国道398号)沿い、魚市場近くのNPO石巻漁業実習協議会の建物にて

壁には、受け入れているジャカルタからの実習生たちのプロフィールや、父親から受け継がれたという震災前から使用しているトロール船「第三十五山神丸」の写真が張られていた

震災が発生した3月は、石巻では小型船は休漁期間とされており、港や浜でのメンテナンスが主業務となる。木村さん自身は、漁業組合の会合で仙台市の山間部にある秋保温泉にいて港での被災を免れた。結局、実習生たちは全員無事だったのだが、市街はまだ水が引いていない状態で港まで陸路ではたどり着くことができず、実習生たちと再会するのは約半月後となる。しかし、再会もつかの間、福島第一原子力発電所の事故が発生したことにより、実習生たちはすぐに帰国してしまう。

「そのときはまだ、こちらも漁ができる状況ではなかったんですが、幸い、私の船は修理して翌年には使えるようになりました。でも、漁を再開しようと思うと人手がいる。そこで再び、石巻市と一緒に西ジャワ州にお願いして、2012年の9月ごろには6人、また来日してくれたんです」

市場も、2011年の7月には仮設テントで競りが再開されていた。

「実習生といっても、うちにとってはもう彼らが主力ですから。彼らがいないと、船主だけでは漁はどうにもなりません」

受け入れ再開に際して、木村さんは先のNPO石巻漁業実習協議会を設立。瓦礫の片付けや網の修理など、復興に大活躍してくれている姿を見て、2つの決断をする。

「うちら漁師の気持ちとして“奨学金制度をやろう”と。彼らへの恩返しに、意欲がある子供たち20人の現地での高校3年間の就学を支援することにしたんです。そして、来日してからの研修期間や、研修生に対する長靴などの支給、休業日の規定も行いました。漁師はそれぞれ自由操業で、良くも悪くも負けず嫌いで我が強いんです。それが、このNPO法人の設立によっていくらかまとまりができてきたんですよ」

この奨学金制度による最初の卒業生20人の受け入れは、ことしから始まる。「やっと奨学金の生徒が初めて来るんです」と木村さんは表情を緩めた。

もう一つの決断が、冒頭の船の新造だ。小型ではあるもののFRP(繊維強化プラスチック)製で、パワーアップしたウインチや水温調整できる水槽、そしてエアコンといった乗組員の快適性のための機能も備えた最新鋭のスタン・トロール船だ。

「新造船の建造費に、私の場合復興予算からの助成は出なかったんですが、TPP(環太平洋パートナーシップ協定)関連の基金で支援が得られることになったんです。建造費の半額が支援されたんですが、それでも1億円かかりました。船が新しくなったからといって水揚げが5倍、10倍になるわけではないのですが、インドネシアから来てくれる子供たちのためにも、このタイミングで自分も頑張ろうと思ったんです」

木村さんは、奨学金制度の実施にあたって、実習生の自宅があるインドネシアの奥地まで足を運んだ。村を挙げての歓迎と共に、涙ながらに心配を口にする親御さんとも話したという。

「息子のけがが心配だと泣いているお母さんに、石巻は幸か不幸か、被災したことで船も港も最新鋭になったので、設備や環境のことは安心してくださいってお話ししたんです。インドネシアの漁業はまだ木船が主流です。漁業の実習は昨年の11月から期間は延びて5年になりましたが、それでも研修が終わったらそれで帰国しておしまい。でも、できればいつか、そうやって研修を積んだ子たちにまた日本に戻ってきてもらって、今度は造船場でFRP船の製造を学んでもらったりできればいいなと思っているんです」

第二とあるがこちらの方が新造船となる「第二山神丸」。以前の船にはなかったトイレもウォシュレット付きだそう。乗組員の快適性も格段に向上している

取材に訪れた3月は休漁期間中のため、実習生たちは牡鹿半島の小渕浜にある木村さんの作業場で道具のメンテナンスに取り組んでいた。表情にはまだまだ少年の面影を残している

世界に誇る卸売魚市場の新生が急がれた理由

木村さんの真新しい第二山神丸が停泊する港・石巻漁港は、国が水産業の振興のために重要な港として指定する13ある特定第三種漁港の一つだ。

東北最大の一級河川・北上川のミネラルたっぷりの水によって発生するプランクトン、北から来る親潮に乗ってくるイワシなどの小魚を狙って、南から黒潮に乗っていろんな魚がやって来る。特に牡鹿半島の先、金華山沖合は世界三大漁場に数えられている。

「金華さば」「金華かつお」や、2017年に宮城県でのGI登録(国による農林水産物・食品等の産品名称を知的財産として保護する制度)の初事例となった「みやぎサーモン」など、ブランド魚も数多い。

東日本大震災は、そんな世界的漁場である牡鹿半島の南東130kmを震源地とする。マグニチュード9.0、震度6強という激震により、地盤沈下と津波被害で石巻漁港も壊滅してしまう。

それでも、前述のとおり震災からわずか4カ月後には仮設テントで競りが再開された。

そして、本格的な再建工事が始まろうとしていた2013年1月に着任した石巻市水産物地方卸売市場管理事務所の副所長 齋藤俊和さんは言う。

「震災前には水揚げ高12万8000t余りと、全国3位になったこともあります。石巻は水産の街なんです。水産業、つまり石巻漁港が復旧しないと経済も復旧しない。例えば、震災後の2017年で見ても水揚げだけで208億円となります。これは、単純計算で市場の外での経済効果が400億円はあります」

石巻市水産物地方卸売市場管理事務所の副所長 齋藤俊和さんは、1973(昭和48)年生まれ、石巻出身。写真のとおり荷捌きエリアは封鎖型となっている。「開放型だった以前の建物は寒くて、ドラム缶を置いてたき火をしていましたが、今はそんなに冷え込むこともありません」

齋藤さんが着任した2013年1月には、かさ上げ工事は完了し、護岸工事が始まったばかり。8月には本格的な再建工事が始まる予定だったが、その時点では竣工した姿は想像もできなかった。

「少なくとも、10年はかかるだろうと感じました。しかし、実際にはわずか3年あまりで完成したんです。石巻市の経済基盤ですので、卸売市場の早期復興が震災復興計画に盛り込まれたんです。つまり石巻魚市場の再建は、石巻市全体の復興を牽引するシンボルとして取り組まれたんです」

そこで、水産庁は191億円の予算を満額、復興予算として支出。そして公共工事では初めてとなる、アトリスクCM方式(以下、CM方式)という発注方式が採用されることになった。

「今回の工事では、鹿島建設がコンストラクションマネージャーという中立性を保ちつつ、行政に代わって各種工事の発注などマネジメントを行う方式です。この方式ですと、設計変更への対応や決定が現場でスピーディーに行え、行政はその現場の判斷に基づいて指示書を作成すればいいんです。この方式により、10年といわれていた工期を3年に縮め、2014年には一部工区を残して新施設で運営を開始。2015年9月1日には石巻魚市場の全面供用をはじめ、同月26日には竣工式となりました」

石巻ではこの成功をモデルケースに、復興住宅などの公共事業もCM方式を採用。“陸”の復興のスピードを速めることにもつながっている。

「卸売市場としても全国のモデルケースになるような最新鋭の施設になっています。荷捌き所を封鎖型にし、IDカードなどで車・人の出入りを管理して、必ず洗浄しないと出入りできないようにするなど、水産庁が定める高度衛生管理基準レベル3や、国際的な衛生管理方式『HACCP』(ハサップ)にも対応しています。放射能検査にも力を入れ、1時間で1000検体を非破壊検査できるコンベア式の検査機を東北大、卸業者さんと共同で開発しました。また、かつても東洋一の規模だったのですが、全長は一直線に876mと1.4倍になりました。おそらく直線型では世界最大規模になったと思われますが、照明のLED化や太陽光と蓄電池システムの導入で省エネ化も図っています」

国内のみならず海外への輸出も視野に入れた、石巻ブランドの付加価値向上を狙う新生・石巻魚市場。この卸売市場の安全・安心を裏付ける先進性と共に、最も震源に近い街から世界へと震災からの復興が発信されている。

一直線に全長876m。いかに長いかが写真からも見てとれる

屋上には2198枚もの太陽光パネルを設置。通常は30度の角度をつけて設置するが、鳥が巣を作ってしまうので平置きにしてあるそう。写真奥に見えるのが牡鹿半島

リチウムイオンの蓄電池を導入。太陽光発電と共に省エネ、二酸化炭素の削減などに寄与する。事務所棟にコントロールシステムEMSがあり、使用状況をモニタすることができるほか、市場エントランスのTVモニターにも情報を表示する(写真下)


<2018年4月2日(月)配信の【後編】に続く>

牡⿅半島の古⺠家再⽣や島全体が神域とされる⾦華⼭の震災復興をレポート!

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