2019.06.10
火星移住も現実に?ゲノム技術がもたらす新たな産業の形
食品、医療、資材、エネルギーも革新するゲノムは生物学の領域を超える
昨年ごろからニュースなどでも頻繁に耳にすることが増えた「ゲノム編集」という言葉。米国や中国では研究が活発に行われ、ゲノム編集の先にある「ゲノム合成」の技術まで誕生しているという。今後、世界の産業を大きく変えると期待されるゲノム関連技術について、まずはあらためてその理解を深めていくべく、2018年に話題になった『マンモスを再生せよ ハーバード大学遺伝子研究チームの挑戦』(文藝春秋)で解説を担当する東京工業大学の相澤康則准教授に話を聞いた。
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可能性は無限大! ゲノムを編集・合成するとは何か
2019年内には、ゲノム編集技術を用いた食品が日本で流通していく見通しだ。血圧を下げる効果を持つアミノ酸・GABAを15倍も含んでいるという筑波大学開発のトマトや、国立研究開発法人 農業・食品産業技術総合研究機構が開発した収穫量が多いイネ、近畿大学と京都大学が共同で作り出した筋肉量が通常の1.2倍で可食部が多いマダイなど、今、ゲノム編集技術によって付加価値の高い食品が次々と生み出され、一般生活に浸透し始めようとしている。
「ゲノム編集、ゲノム合成など、合成生物学と呼ばれる研究分野に秘められた潜在力は、品種改良などの食品分野や創薬をはじめとした医療分野にとどまりません。社会や人間の生活をより豊かにする、あらゆる可能性が秘められているのです」
そう指摘するのは日本を代表するゲノム研究者の一人、東京工業大学の相澤康則准教授だ。相澤氏は、ゲノム編集技術をバイオロジー(生物学)の視点だけで捉えるのではなく、情報技術や工学など「非バイオロジー」の視点から理解することこそ重要だと唱えている。一体どういうことだろうか。
まず、ゲノムとは「遺伝子のワンセット」のことを指す。人間の一つの細胞には、約2万1000個の遺伝子が含まれている。酵母なら約6000個、大腸菌なら約4000個という具合だ。それら遺伝子の一つ一つは、生物や微生物の細胞がその形になる、その機能を果たすようにDNAによって指示を記された一枚の設計図のようなものだ。そして、その設計図の全ページをまとめたワンセットが、ゲノムと呼ばれている。
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東京工業大学の相澤康則准教授。「ゲノム=生物学という思い込みを払拭してほしい」と、その可能性を語る
「ゲノムや遺伝子、DNA、細胞などを、コンピューターに置き換えて考えてみるとイメージしやすいでしょう。分かりやすく抽象化するならば、ゲノムや遺伝子、DNAは、生物を形成するためのオペレーティングシステム(OS)やソフトウェアに相当します。細胞は、それらをインストールするためのハードウェア。そのような非バイオロジーの観点を持つと、ゲノム編集・合成技術の理解は一気に深まります。つまり、生物が持つソフトウェアやプログラムを自由に書き換えられることができる技術が、ゲノム編集・合成なのです」
ゲノム技術でウイルスに感染しない細胞やヒト化豚が生まれる
例えばゲノム編集・合成の可能性の一つとして、相澤氏は「抗がん大腸菌」を挙げる。ゲノム関連技術が発展すれば、「もっといろいろな疾患に対して、細胞を薬にできる時代が来るかもしれない」と言うのだ。
現在、医療の世界では患部を治療する極小サイズの「ナノ・ロボット」開発が進められているが、抗がん大腸菌は細胞自体にプログラミングを施して“ロボット化”させてしまおうというアイデアである。
「実際に研究が進められている抗がん大腸菌は、がん細胞を死へと誘導する機能を持ちます。がん細胞が増殖すると周囲の組織は低酸素状態になるのですが、その状況をきっかけにがん細胞を殺すスイッチが入るよう、抗がん大腸菌のゲノムを編集しておくのです。タスクをプログラミングさせるという発想ですね」
一方、ヒト細胞のゲノムを書き換えれば、そもそも「ウイルスに感染しない細胞も作れる」という。これは、ワクチンなどバイオ医薬品を生産する際に、リスクを避ける方法として有効だ。
バイオ医薬品製造には、人間の細胞を培養して目的となるタンパク質を抽出・精製する工程がある。その際、培養中の細胞がウイルスに感染してしまうと一気に生産がストップしてしまう。製薬会社にとっては大損害になることはもちろん、希少疾患に有効な薬の供給が止まってしまうという最悪の事態も起こりかねない。実際、そのような前例があるそうだが、「ウイルスに感染しない細胞を作ることでリスクは回避できる」というのだ。
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ヒトゲノムの研究を専門としている相澤氏が解説を寄せた『マンモスを再生せよ ハーバード大学遺伝子研究チームの挑戦』(文藝春秋)
「『生き物をプログラミングし直す』という意味合いで言えば、米国のベンチャー・eGenesis(イージェネシス)のアイデアは特筆すべきでしょう。彼らは豚の遺伝子を書き換えて、人間の臓器を持った“ヒト化豚”を生み出そうとしています。最終的に、ヒト化豚の体内で組成された臓器を人間に移植できるようにするのが目標です。かなりとがったアイデアですが、臓器提供を待っている方々がたくさんいると考えると、需要はかなり大きいはず。まだまだ課題が多いとは思いますが、そういったことも決して実現不可能ではなくなってきているんです」
同じ原理で生み出すことができるのが、「インフルエンザに感染しない鶏」や「コレラに感染しない豚」だ。食糧問題が世界的に懸念される中、ウイルス耐性を持った家畜を積極的に研究・開発することは解決の一助になるというのが相澤氏の意見だ。
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米国のベンチャー・eGenesisが提案しているヒト化豚のイメージ。2012年に誕生した「CRISPR-Cas9」というゲノム編集技術を活用しているという
ゲノム合成技術があれば火星移住も夢ではない
ゲノム編集・合成技術が、「生き物をプログラミングし直す」技術とする視点はとても興味深いが、相澤氏はさらに一歩進んで「人間に必要な物質を自由自在に生み出す細胞=魔法の箱」を生み出す技術であるとも表現する。「何でもできる」としてしまうと少し誇大にも聞こえるが、およそあらゆる全ての産業にインパクトを与えるテクノロジーだというのだ。
「合成生物学の分野には、細胞工場(セルファクトリー)というコンセプトが以前からあります。例えば酵母は、培養されている培養液の中で何かしらの化合物を細胞に取り込み、化学反応の末に新しい何かしらの物質を生み出します。栄養価が高いもの、うま味のもとになる成分など、実にさまざまな物質です。どこか、この作用は工場に似ていると思いませんか?
ゲノムをデザインするということは、すなわちその化学反応や細胞工場のネットワークをデザインすることに等しい。自然に存在する微生物の細胞から、特定の遺伝子を外したり、加えたり、コピーすることで、特定の物質をインプットし、希望する物質をアウトプットすることが可能になるのです。この細胞の中の物質変換の流れをデザインできるという点は、ゲノム編集・合成を理解する上でとても重要なポイントになります」
細胞をデザインし、ある物質を放り込めば、欲しい物質が手に入る――。そう聞くと、「錬金術」というキーワードが頭の中に思い浮かんでくる。SFやファンタジー小説の世界のようにも思えるが、既にその錬金術をビジネスにつなげ成功しているベンチャーも現れてきている。
ソフトバンクが投資を行う米国バイオ企業・Zymergen(ザイマージェン)がその一つだ。
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Zymergenは2016年にソフトバンクなどから1億3000万米ドル(約136億円)を調達。その後も、ソフトバンクグループなどから巨額の投資を受けているバイオテクノロジー企業
同社は、遺伝子を組み換えた微生物、相澤氏の言葉を使えば「魔法の箱」を生産する技術体制を持っており、「食べ物の味の向上」から「ステルス爆撃機のコーティング強化」まで、ありとあらゆる依頼を受けているという。米国防総省傘下の国防高等研究計画局(DARPA)も、橋や戦闘機などの鉄部塗装の耐久性向上、またウェアラブルデバイスに必要となるポリイミド薄膜を製造するため、同社に約360種類の新しい微粒子の開発を依頼しているという。
また、2019年4月には日本の住友化学も、「ディスプレイ用の光学フィルム」「傷に強いハードコート材料」「フレキシブル基板向け材料」「接着剤」などの開発で、Zymergenと業務提携することを発表している。
「Zymergenが微生物の遺伝子をデザインして生み出している物質は、これまでは化学の世界で生み出されてきたものです。その役割の一部が、合成生物学の世界に移りつつある。しかも、ゲノム編集・合成はもともとも地球に存在する遺伝子資源を利用するので、環境にも優しい。環境問題は地球規模の課題ですが、そこでも合成生物学が果たせる役割は大きいのです」
相澤氏は、人類が将来的に宇宙空間や別の惑星で生活するようになった際にも、物質を自由に変換、デザインできるゲノム技術は重要になると考えている。食糧や生活必需品そのものを持っていかなくても、ある細胞の中に必要なプログラムを書き込んで、現地で作ってしまえばよいという発想だ。
現に相澤氏は、株式会社電通が主導して立ち上げられたプロジェクト「Design Natural Resources – Mars from Scratch, Earth for regeneration -」に参加。UAEで開催された「ADIPEC2018」という石油・ガスエネルギー関連の展示会で、同社が行った発表にも協力している。このプロジェクトは、人類が火星に移住するために必要となるエネルギー資源、大気、土壌を、火星で生み出してしまおうという前代未聞のアイデアだ。
「ゲノム編集・合成技術は、特にエネルギー問題に大きな進展やメリットをもたらしてくれるでしょう。問題は、日本社会ではゲノム編集・合成技術がもたらす社会へのインパクトが、想像も理解もされていないことです。また、理解するだけではだめで、新しいことを生み出していく気概や挑戦が必要になっていくと考えています。
紹介したように、欧米では合成生物学で成果を出すベンチャーが、実際に現れ始めています。一方、日本では、そのような動きがほとんどありません。私自身もその流れを変えたくて、今夏に起業する準備を進めています。とがったアイデア一つで、世界に寄与できるゲノム編集・合成の分野は、まさにベンチャー向き。競争はまだまだ始まったばかりなので、日本から世界で一緒に戦える企業が出てくることを期待したいです」
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研究室の学生たちと相澤氏。「僕らの研究はスポイトで液を垂らして、その変化をじっと待つという繰り返し。一見地味かもしれませんが、そこで起きた変化が、大きな革命をもたらすことになるかもしれません」
ゲノム編集・合成技術は、地球が38億年という長い生命進化の時間をかけて育んできた遺伝子という資源を、余すことなく使い切るための新しい手段だと相澤氏は言う。同分野でイノベーションが起きたとき、「魔法の箱」からどんな新しい未来が生まれるのか。期待だけがただただ膨らむ。
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